鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

安部公房 「鞄」《1》 創作のなかの自由

 今日のお天気は晴れ。

 とても暑かったよ……

 安部公房の『鞄』について語ってみよう(『鞄』は新潮文庫『笑う月』に収録されています)。

目次

 このシリーズ(全14回を予定)は『鞄』で描かれた自由について語ります。第1部は、わたしの直感的な視点、発想から『鞄』を語っています。第2部は「探求」をテーマに、テキストを丁寧に読み込みながら語ります。

第1部(2010~2011年)

 第2部(探求シリーズ 2012年~)

 第1部《1~2》は、『鞄』について他では語られていない視点(たぶん学校でも教わらない)で書かれているので、この作品に興味をおもちの方は楽しんでいただけると思っています(『鞄』について、まずは自分であれこれと考えてみたいという方は、第2部 探求シリーズからどうぞ…)。

不思議な鞄のこと

 この小説には(現実には存在しない)不思議な鞄が出てくる。物語の終わり近く「私」は鞄を持って事務所を出かけ、この鞄を手にしているために戻れなくなってしまう。

 もう一歩も進めない。気がつくと、何時の間にやら私は事務所を出て、急な上り坂にさしかかっているのだった。方向転換すると、また歩けはじめた。そのまま事務所に引き返すつもりだったが、どうもうまくいかない。(……)そのうち、何処を歩いているのか、よく分からなくなってしまった。

 不思議な鞄ではあるけれど、わたしがこの小説を読んでいちばん不思議に思ったのは、この鞄ではなかった。どうして「私」は、この鞄をひとまず置いて(手放して)しまわないのだろうということだった(馴染みのお店でもあれば預かってもらってもいいし…)。そうすればすぐにでも事務所に戻ることが出来るのに…… (皆さんは、そんなふうに思いませんか?)

 なぜ「私」は、そんな当たり前のことを思いつかないのだろう? 「私」はこの鞄に魔法でもかけられたのだろうか?

 そのように考えるとき、わたしのはこの鞄に無意識(深層心理)の構造を見てしまう。無意識というのは、自分には意識できないしコントロールすることも出来ない(もちろん切り離すことも出来ない)。安部公房は鞄という小道具を使って、無意識の世界(意識下の世界)を鮮やかに浮かび上がらせてくれた。わたしにはそのように思われる。

 この小説のもっとも話題になる、いちばん最後のところを引用しよう。

 べつに不安は感じなかった。ちゃんと鞄が私を導いてくれている。私は、ためらうことなく、何処までもただ歩きつづけていればよかった。選ぶ道がなければ、迷うこともない。私は嫌になるほど自由だった。

 ここで語られている自由とは何だろう?

人にとっての自由はどこにあるのだろう?

 『鞄』は教科書に使われているということもあって、ネットで検索してみると模範解答のようなものを見つけることが出来る。それによると

 鞄というのは、人間を規制(制約)するさまざまなもの、法律、国家、宗教、常識、社会、家、人間関係などの象徴ということらしい。だからここで語られる自由は、何かに縛られることによって知ることの出来る自由であり、いわば見せかけの自由ということらしい…… (あるいは、選択することの困難さや責任から開放されることによる自由、など)

 そうなの? これはわたしにとって、いささか魅力に欠ける解答のように思われる(これらの言葉は、わたしのこころに響いてこないよ…)。

 ここで語られている自由は、わたしのなかで村上龍『五分後の世界』のあとがきと結びつく。村上龍はこの小説を書いている最中に「今までにないスリリングな体験があった」という。

 (小説の執筆が)約半分まで進んだ時に、突然「物語の設計図」とも言うべき三次元パース画のようなものが出現した。(……)その後はマシンになって書いた。間違えたり、余分なものや不足なものがある時は、「違うよ」と「設計図」から指摘された。「物語の設計図」の奴隷になっていたわけではもちろんない。ただし、主人でもなかった。

 奴隷でも、主人でもなかったという表現が秀逸…… (この言葉をちょっと言い換えてみよう。「私」は鞄の奴隷になっていたわけではもちろんない。ただし、主人でもなかった)

 これは無意識の領域に沈んでいた物語が意識化(顕在化)した瞬間のことを述べているようにわたしには思われる。すぐれた作家というのは、無意識の領域の事柄を物語として言語化できる(このようなことは、普通の人にはむつかしくはあるけれど…)。

 わたしはこのとき村上龍が小説を書くことのよろこびと自由を感じていたと思う(このような感覚は分かりにくいだろうか? なんらかの創作をしたことのある人なら分かると思うけれど…)。

 安部公房もまた、これと似たようなことを語っている。インタビュー「安部公房との対話」から引用しよう。

 一度書き出してしまったら、不思議なことに、書いている作品自体が主導権を握り、ぼくはそれに従うしかない。もはや自分が書いているものを支配できなくなるんです。ある段階を越えてしまうと、自分ではコントロールできなくなる。

 なるほど、村上龍の語っていることとよく似ている(と思う)。また、エッセイ「右脳閉鎖症候群」では、つぎのように語られている。

 [小説を書くために]それまで準備してきたメモやノートが、とつぜんその夢の周囲に結晶し、構造を持ち始めたのである。そこから先の展開は急激で、しかし論理的なものではなかった。(……)創作は「待つ」ことだというのは嘘ではない。あとは計算を越えた直感が自由気ままに自己増殖してくれる。

 ※ [ ]は、わたしの補足です。

 『鞄』も論理的なもの(筋道をたてて考えたもの)ではなく、「計算を越えた直感が自由気ままに自己増殖」してつくられたものだろう(直感的なものは無意識の領域とつながっている、作家はその直感に自らを沿わして小説を書く)(そのようにして書かれる小説だからこそ、それは人々をひきつける魅力をもつ)。

 わたしにとっての自由がここにある。

 意識の領域だけを求めても自由は実感できないという気がしている。分かりやすく言語化された欲望が乾きに似て、いつまでも満たされないのとそれは似ている。わたしの奥深くにあるこころ(つまり無意識)はなにを求めているのだろう、そのような問いかけから、わたしにとっての自由がはじまる。

 わたしは奇妙なことを語っているだろうか? そうなのかもしれない。でも、それでいいと思っている。わたしには、わたしの手にした鞄(直感)に導かれて、この文章を書いているという感覚がある。不安は感じていない。少しも迷うことなく、わたしはこの文章を書くことが出来ている。わたしもまた、自由だった……

鞄を持ってきた青年のこと きみは何者?

 不思議な鞄を持って「私」の事務所に現れた青年について、少し書いておこう。

 「雨の中を濡れてきて、そのままずっと乾くまで歩きつづけた、といった感じのくたびれた服装で、しかも眼もとが明るく、けっこう正直そうな印象を与える青年」彼は半年以上も前の新聞の求人広告を見て、この事務所にやって来たという。

 彼はいったい何者? (ヒント 創作は「待つ」ことです)

 創作の使者(閃き)は、ずいぶんと時間が経過したのち、ある日突然作家のもとを訪れるものかもしれない。それは不思議な鞄を手にした、くたびれた服装と明るい目もとの正直そうな青年だった……

 少し長くなりましたが、安部公房『鞄』《1》を終わります(楽しんでいただけましたか?)。

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