鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

安部公房 「鞄」《12》 鞄と共に歩む創作

 安部公房『鞄』《11》からのつづき(1回目と目次はこちら)。

 『鞄』の物語は創作のプロセスに似ていないだろうか。ふと、そのことに気がついたとき『鞄』とわたしの関係がおおきくかわった(そのときの読書体験は《6》を参照)。

 これまでも『鞄』と創作の関係をいくらか語ってきたけれど、今回は物語全体を眺めつつ、より詳細に語ってみよう。

新聞広告

 具体的に考えてゆけるように、ここでの創作を小説にしよう(皆さんは小説を書かれたことあります?)。

 それが日記だったら今日あった出来事を書けばよいのだから、さあ書こうと思ったらすぐに書きはじめることが出来る。でも、小説はそういうわけにはいかない。物語の中心になる(こころがつよく惹きつけられる)イメージやアイデアがなくては書きはじめることができない。

 イメージやアイデアは、ぼんやりと待っていてもだめだと思う。いろいろと考え、あれこれと準備しながら辛抱づよく(ときには年単位で)待たないといけない(作家の閃きについては《7》を参照)(手応えや、これだというのがなにも見つからないうちから適当に舞台と人物の設定をして、だらだらと書いてゆくのはだめだと思う…)。

 『鞄』の物語にそんなところあります? と疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれない。では、このように問い返してみよう。不思議な鞄=物語の核となるイメージ=物語のすぐれたアイデア=インスピレーションを手にした青年はどうして「私」の事務所を訪れたのだろう?

 答えはひとつ。

 求人の新聞広告を「私」が出したから。新聞広告を出さなければ「私」と不思議な鞄との出会いはなかった(はず…)。安部公房クラスの小説の技術があれば、不思議な鞄を手にした青年が一方的に事務所を訊ねてくる設定で物語を組むことも(簡単に)出来たと思う。でも安部公房は「私」→ 新聞広告 → 鞄~青年、という流れを選んだ。

 「私」が準備して求め、ずいぶんと(半年ほど)待って、そこに与えられたのが不思議な鞄だった。なぜかは分からないけれど、この物語のはじまりはそのように組まれている。それは、わたしがいま語っている創作の関係と奇妙に一致している……

 不思議ですねぇ。

 たまたまじゃないの? そう思われる方もいらっしゃるかもしれない(まあそうかもしれないけれど…)。でも、そのように思われる方は作家にはむいていないと思う。ひとは、そのような不思議を運命と呼びます。作家とはそのような運命に愛された方々の別の呼び名でしょう…… (このような台詞をいちど言ってみたかった…)

青年との会話

 不思議な鞄=物語の核となるイメージ=物語のすぐれたアイデア=インスピレーションが得られたら、次はなにをすればよいだろう。それがこころをぐっとつかまれる魅力あふれるものなら、そのものについてもっと深く知りたいと思いませんか?

 その対象が人物なら、じっくりとお話しをしてみるのがよいと思う。でも鞄は〈もの〉なので、直接言葉を交わすことはできない。ということは、どうすればよいだろう…… 不思議な鞄は青年と共に「私」のもとを訪れたのだから……

 それは「私」と青年の会話をとおしておこなわれる。青年は不思議な鞄を肯定の側面から語り、「私」はそれを否定の側面から語る。鞄を肯定、否定ふたつの角度から見ることで、不思議な鞄のイメージが立体的に浮かびあがってくる。

 それぞれ違う視点からの対話というのは大切なことだと思う。安部公房が『鞄』の物語を書いたということは、不思議な鞄のアイデアを気に入っていたということにほかならないわけだけけど、物語の主人公は、ふむ、きみの鞄面白そうだね、というふうには展開しない。そんなばかな話はないだろう~ と否定の視点から対象を語る。

 否定するためには直接見えているところから、さらに一歩考えを深める必要がある。鞄の場合は、行き先がきまってしまうという「現象」が、選択することの「意味」へと考えが深められてゆく。

 さあ、手にしたアイデアもあたたまって(熟成して)きた。執筆作業にとりかかろう!

鞄を手にして歩く 辛いこともあるさ

 調子がよいときは執筆も自然に、すすすとすすんでゆく。「私」も、ずしりと腕にこたえる鞄をもって事務所を出発。GO!

 でも、しばらくすると筆に迷いが…… 「そのまま事務所に引返すつもりだったが、どうもうまくいかない」う~ん、はじめのプランどおりに物語を書きすすめることが困難になってしまった。少し書いては、なんかちがう、これじゃないんだよなあ…… と書き損じの原稿が床に積もってゆく。

 書きはじめから一気に波に乗って、そのまま作品を仕上げてしまうこともあるけれど、途中で執筆作業が停滞してしまうこともおおい。座談会「“燃えつきた地図”をめぐって」から、安部公房の執筆のエピソードをご紹介しよう。

勅使河原 終りのところで喫茶店へ電話するでしょう。あの女のところへ…… [《10》でご紹介した「手もとに残された電話番号に公衆電話から電話をかける」の場面です]

安部 あれがね、最初、書いていてどうしたらいいかわからないんだよ。どう書いてみても、どこか違う、どこがどう違うのかわからないんだけれど、どこか違うんだ。もう本当に辛かったね。とにかくどこか違う……

 ※ [ ]は、わたしの補足です。

 すぐれた小説の技術を持つ安部公房でも、適切なルートを見失うこともある(物語の霧は深い…)。それでも(どんなに辛くても)安部公房は手にした鞄=物語の魂を手放したりしない(こころを偽って妥協しない)。時間をかけてルートを見つける。

 「こういうの、思いつくというのは、思いついてみないとわからない、何かのはずみにひょいと……」と安部公房は語る。そう、思いついてしまえば簡単なことなんだよね(わたしが、このシリーズを《8》「変奏」から《9》「続・変奏」へと展開したみたいに…)。

 『鞄』の主人公「私」もまた、鞄を手放さない。事務所に戻るルートを見限った(捨てた)瞬間から、鞄=物語の魂は「私」の望むなにものかにむかって「私」をぐいぐいと導いてゆく(そのあたりのお話は《11》「失踪者の眼差しとクレオール」を参照)。

 「べつに不安は感じなかった。ちゃんと鞄が私を導いてくれている」と「私」は語る。「私」は、そこに自由を感じている。

鞄を手にして歩く いやになるほど自由だった

 『鞄』の物語の結末は「いやになるほど自由だった」と終えられている。なぜ「自由」に「いやになるほど」がくっついているのだろう(自由って、明るくて楽しいものじゃないの?)。

 座談会「“燃えつきた地図”をめぐって」では、「ぼく」が探偵を失職(依願退職)する原因になった青年(田代)について、こんなふうに語られている。

 あの、田代というやつ、初め軽い人物の予定だったのが、出てきてみたら意外となんか変なやつで、もうああなったら始末におえなくてね。勝手に動いちゃうんだ。

 この青年、プランの段階では自殺(狂言?)する設定ではなかったらしい。でも書きすすめてゆくうちに(作者のプランを無視するかのように)勝手に動きはじめてしまう。ああ、なんて勝手なやつ(キャラ)だと作者の嘆きはつきないわけですが……

 でもそれは、何度書き直しても「どこか違う」ことの辛さとはまったく違う。はじめのプランとは違ってしまっても、書き直す必要はない(書き直してはいけない)。どうして? それが、鞄=物語の魂が教えてくれた物語への〈答〉だから(キャラが勝手に動くというのはそういうことだと思う)。

 創作って、不思議ですねぇ。

 安部公房の語る「始末におえなくてね」の苦笑いのニュアンスが、わたしには「いやになるほど自由だった」と聞こえるのですが…… 皆さんはいかがですか?

 (田代青年は安部公房のお気に入りだったらしく、エッセイなどでもあれこれと語られている…)

創作の不思議 魂の不思議

 どうですか、このように眺めてみると『鞄』には、創作のエッセンスがぎゅっとつまっていると思いませんか?

 どうしてこのようなことが起きるのでしょうね?

 不思議ですねぇ。

 わたしはその秘密を少しだけ知っていますよ。それは安部公房が人間の深いこころ〈魂〉を大切にした作家だから、わたしはそう思います。だから安部公房の読者であるわたしたちも、深いこころ〈魂〉で読書に望むのがよいのではないでしょうか。

 あなたのための「不思議」はすぐそこで、あなたに見つけられるのを待っているのですから……

 次回は鞄の変遷について語ろう。

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