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鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

安部公房 「密会」《1》 地獄への旅行案内

 今日のお天気は晴れ。

 9月になって暑さもやわらいできた。

 安部公房『密会』について語ってみよう。

目次

 このシリーズ(全16回)は『密会』の奇妙で不気味な世界とその魅力について語ります。

地獄への旅行案内 巨大病院へようこそ

 『密会』は新潮社の「純文学書下ろし特別作品」として1977年に発表された。単行本の函には「著者の言葉」が入れられている。

 地獄への旅行案内を書いてみた。べつに特別な装備は必要としない。ただ入口だけは、まぎらわしいので、よく指示に従ってほしい。いったん中に入ってしまえば、あとは君が通いなれた道順にそっくりのはずである。地上では愛と殺意という二本の枝に別れていたものが、地獄では一つの球根に融けあっているとしても、驚くことはないだろう。いま以上に迷ったりする気遣いはないのだから。

 安部公房はこのような文章がとても上手いなあと思う(出来ることなら文庫本の『密会』にも収録しておいてほしかった…)。「地獄への旅行案内」かあ…… 安部公房プロデュースの「地獄巡り」ならぜひ参加してみたい! (皆さんはどうですか?)

 参加するのに特別な装備は必要ないという。病院を舞台にしているからといって、医学の専門知識が必要というわけではないらしい。ただ入口だけはまぎらわしいので、慎重に行動することが求められている。『密会』では、時間の流れに変則的な手法が採用されている。そのスタイルに馴染むまでは、先を急がず丁寧に読みすすめていった方がよいかもしれない。

 読みすすめるときの参考に、『死に急ぐ鯨たち』から1986年のインタビュー「『明日の新聞』を読む」を引用しておこう。

 書くという行為が生み出す、作者、作品、読者の三角形に必然性を与えようと思えば、まず書いている現在の時間に忠実でなければならない(……)古典的なリアリズムの時間では《事実らしさ》はある程度保証されても、《事実》そのものは剥製にされてしまうでしょ。

 なるほど…… (言葉にするとむつかしそうだけれど、「ノート」が記述されている状況をきちんと把握しておけば、あとは自然に読みすすめることが出来ると思う…)

弱者と愛と殺意

 「地上では愛と殺意という二本の枝に別れていたものが、地獄では一つの球根に融けあって~」は、冒頭のエピグラム「弱者への愛には、いつも殺意がこめられている」と呼応しているだろうか。

『密会』エピグラム

 いちど読んだら忘れられないフレーズ…… 弱者・愛・殺意、わずか三つの言葉で現代を描けてしまう凄さと恐ろしさがある(このエピグラムは安部公房のお気に入りだったらしく、戯曲『仔象は死んだ』でも使われている…)。

 地獄の舞台として用意された巨大病院は、その大きさのために本来は明瞭であるはずの外部との境界もはっきりしない。市街地までも病院に呑み込まれてしまっては、病気と健康の関係もかわってしまう。

 「病人であることを素直に認め(……)よき患者になりさえすれば、心の平安が保証されるわけだ」と安部公房は語る。そんな病院で覗き見たとある光景について「まるで廃品回収のトラックから逃げだしてきた虫食い人形一座の気違いパーティじゃないか」と物語の主人公は語る。

 なんだか怖いな……

 巨大病院では、すべてのものごとがあるべき姿を見失い、奇妙な形にゆがんでしまっている(わたしには、そのように思われる…)。特殊なコルセットを装着して4本足の「馬人間」になることが出来る副院長。試験管を母親にして育った「試験管ベビー」の女秘書。骨がゼリーのように流体化してゆく「溶骨症」の少女。

 嫌悪のなかにもユーモアがあり「愛」がある。『密会』で描かれる世界は、単純に言葉で語ることの出来る世界からずいぶんと遠いところにある。わたしたちの世界の本質がそのようであるなら「いま以上に迷ったりする気遣い」もまたないだろう。

 ある夏の早朝、男の妻が突然乗りつけてきた救急車で病院に搬送される。妻を捜して男は病院を訪れる。医師までもが「良き患者」であろうとする病院のなかで、男はけっして「良き患者」であろうとはしない。終わりのない迷路を駆けめぐりながら、男は何を失い、何を手に入れるのだろう。

 現代の地獄巡りのはじまり、はじまり……

 と、『密会』の1回目は、紹介(宣伝?)ふうに書いてみたけれど、このような始め方でよかったのかな…… (いつものように、そのときどきの気分で記事を書いています…)

 次回は登場人物と物語の舞台について語ろう。

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