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鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

安部公房 「デンドロカカリヤ」《1》 コモン君のこと

 安部公房『デンドロカカリヤ』《序3》からのつづき。

 『デンドロカカリヤ』について語ってみよう(本編)。

目次

 このシリーズ(全20回くらいを予定)は、安部公房の初期を代表する短編小説『デンドロカカリヤ』(新潮文庫『水中都市・デンドロカカリヤ』に収録)を、リルケとの関係を中心に、その成り立ちや独創的な表現の意味について語ります(「序」にさっと目を通されてから「本編」をお読み頂けたらと思います)。

 序 (準備原稿)

  1. 深い霧を切り抜けてゆくように ――戦後と初期作品群。
  2. リルケ ――兵士の死と精神の自殺術。
  3. 方向感覚 ――内容と様式の変遷。

 本編

  1. コモン君のこと――イントロダクション(このページです)。
  2. 登場人物とあらすじ――書肆ユリイカ版を中心にまとめました。
  3. 概要 初期著作群――初期著作群の一覧と簡単なご説明。
  4. 顔の役割――存在―顔―意識の関係についての考察。
  5. 変形の過程――人間から植物への変形の過程について語ります。
  6. 裏返った顔の世界――「内」と「外」が入れ違いになった世界。
  7. コモン君の世界――植物に変形したコモン君の世界=宇宙。
  8. リルケ「ドゥイノの悲歌」――リルケの詩との関係を語ります。
  9. リルケ ダンテ ギリシャ神話――リルケの詩、他を巡るお話。

コモン君のこと おかしみのプロローグ

 『デンドロカカリヤ』の物語は、コモン君が路端の石をふと蹴とばしてみるところからはじまる。「二、三歩先にころげていった石ころを、こんどは別な足が蹴っていた」ころころと転がってゆく石…… 「おれの心はそんなに空っぽなんだろうか」と思ったとき、コモン君は突然、植物(デンドロカカリヤ)に変形してしまう。

 小説の世界では人間が別のなにかに変わってしまうことはよくあることだけれど、それにしても奇妙だな…… コモン君は植物への変形を、それほど驚いてはいないみたい。自分のからだにそのような変化(現実にはあり得ないような変形)が起こったら、普通はもっと驚かない?

 (フランツ・カフカ『変身』のグレーゴル・ザムザも虫になったとき驚いたりはしなかったけれど…)

 コモン君が植物に変形したのち、また人間にもどってからの描写を引用しよう。

 急いで歩き出し、もし誰にも見られていなかったら何食わぬ顔でと、見まわすとやはり気のせいかこちらをじろじろ見ているやつがいる。慌てて、二、三歩行ったところでまたつまずいたようなふり、それが如何にも靴のせいなんだといわんばかりに俯いてみせたりしながら、きっとこれでごまかされてしまうだろう。

 植物に変形した事実よりも、それがなにか「はずかしいこと」でもあるかのように人目を気するコモン君。その心理と仕草に思わず笑いを誘われる。コモン君はきっと善良で純朴な青年なのだろう。路端の石を蹴とばす行為(そのセンチメント)と植物に変形してしまうことは、無関係ではないと思う。

 初出、雑誌『表現』版(1949)でのコモン君(冒頭部分は「ぼく」が「君」にコモン君のイメージを語りかける設定になっている)は、路端の石を蹴とばすだけでなく、空を見上げたり、目を閉じて太陽をつかもうとしたりしている。少し引用してみよう(新潮文庫に収録されているのは1952年に改稿されて発表された書肆ユリイカ版なので、これらの描写はあません)。

 空を見上げてごらん。眼には見えないラッパのような管が、君の眼からするする延びて、天に向って拡がらなかった? そして天が一杯、君の眼に流れ込みはしなかった?

 なんなら目を閉じてごらんよ。そして思いっきり背伸びして、両手をぐっと拡げるのさ。指先で力一杯さわってごらん。何があった? 砕けるように熱いもの? そうだろう。太陽なんだよ。いくつ? 指の数だけ。

 コモン君は空を見上げて、空の青を胸いっぱいに吸い込む。それから目を閉じて、背伸びをする。両手をひろげて太陽をぐっとつかむ。十本の指のなかで、十の太陽があかあかと燃えていた……

 わたしはコモン君のような青年をきらいじゃないな(コモン君は、詩人だね)。でも、路上でそのようなことをしているひとに遭遇したら、目を合わせないようにして、さっと通りすぎると思う(コモン君ごめん… 君、気持ちわるいよ…)。

 「笑っちゃいけない。君もやっぱり例の病気なのさ」「よくあるんだよ、恥のように思って、隠すんだ。お互いに、まるっきりそしらぬ顔でいるものだから、みんな自分だけの病気だと思って……」(雑誌『表現』版)

コモン君のこと 残酷なエピローグ

 デンドロカカリヤ・クレピディフォリヤは「菊のような葉をつけた、あまり見栄えのしない樹」というふうに描写されている。人間から植物(樹)への変形はとはなんだろう。

 「植物への変形を、病気の世界から事実の世界へとつれもどさなければならないんだ!」(雑誌『表現』版)

 「植物への変形」という「病気の世界」から見えてくる「事実の世界」とはなんだろう。安部公房はこの作品に取り組みながら、そこになにを見ていたのだろう。

 コモン君は図書館で「植物への変形」の意味をダンテの『神曲』に探した。ギリシャ神話の本を買い求め、ゼウス一族によって植物にされた人々の物語を読みながら、もっと激しいプロメテウスの火(人間の圧制者であり、親殺しのゼウス一族を山上から追放するために送られた火)がほしいと願う。

 コモン君を植物園へと誘ったK植物園長は、その火を消しに来たアルピイエだった…… 「人間から火を奪うアルピイエを殺してやろう」コモン君は植物園へと乗り込んでゆく(コモン君の運命やいかに…)。

 でも、コモン君に勝利は訪れなかった。なぜって……

 ああ、コモン君、君が間違っていたんだよ。あの発作が君だけの病気でなかったばかりか、一つの世界と言ってもよいほど、すべての人の病気であることを、君は知らなかったんだ! そんな方法でアルピイエを亡ぼすことは出来ないんだよ。僕らみんなして手をつながなければ、火は守れないんだ。

 コモン君はスティームがほどよく通った植物園の温室で、デンドロカカリヤへの最後の変形を終える。K植物園長が達筆をふるったカード「Dendorocacalia crepidifolia」が、その幹に鋲で留められた。

 (ああ、なんて残酷な結末だろう…)

安部公房「世紀の歌」 リルケ「涙の壺」

 「僕らみんなして手をつながなければ、火は守れないんだ」

 物語の悲劇的な結末とは対照的に、語り手の言葉はちからづよい。『デンドロカカリヤ』脱稿のひと月ほど前に書かれた安部公房の詩「世紀の歌」をご紹介しよう。

ぼくらの日々を乾かして
涙の壺を蒸留しよう

ミイラにならう
火を消すものがやつてきたら
ぼくら自身が火となるために!

 どこか魂の昂揚を感じさせる「世紀の歌」、いいですねぇ~

 「世紀の歌」のもとになったと思われるリルケの詩「涙の壺」を引用しよう(新潮文庫リルケ詩集』富士川英郎訳より)。

ほかの壺なら酒をいれる 油をいれる
その周壁がえがくうつろの腹のなかに
けれども私 もっと小型で 一ばん華奢な私は
ちがった需要のための あふれ落ちる涙のための壺なのだ
酒ならば 壺のなかで 芳醇にもなろう 油なら澄みもしよう
けれども涙はどのようになる? 涙は私を重くした
涙は私を盲目にして 曲がった腹のあたりを光らせた
ついに私を脆くして ついに私を空にした

 「世紀の歌」と「涙の壺」の対比の鮮やかさは、ちょっとすごいなと思う(安部公房は当時25歳、その情熱がまぶしい…)。

 わたしは《序2》で、このシリーズをリルケからはじめたいと語った。ふたつの詩を引用することで『デンドロカカリヤ』、安部公房の詩、リルケ、三つの要素が細いラインでつながった。

 さあ、『デンドロカカリヤ』を巡る入り組んだ迷路の旅に出かけよう!

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