鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

安部公房 「デンドロカカリヤ」《4》 顔の役割

 安部公房『デンドロカカリヤ』《3》からのつづき(1回目と目次はこちら、登場人物とあらすじは《2》に書いてあります)。

 コモン君が人間から植物に変形するとき顔が裏返る。ということは、顔の反転は人間―植物への変形のスイッチということらしい…… 『デンドロカカリヤ』で語られる顔とはなんだろう。

顔はフィルター

 新潮文庫におさめられた書肆ユリイカ版『デンドロカカリヤ』では、おおきく削られているけれど、雑誌『表現』版では、顔のイメージ(その役割)について、あれこれと語られている。語り手である「ぼく」の説明によると……

 ぼくらの顔はフィルターなんだ。顔の凹凸に合わせて、原存在が意識に固定される。

 ということです(う~ん…)。

 はじめてここを読んだとき、わたしはなんのことかさっぱり分からなかった(皆さんはどうですか?)。顔がフィルター? ということはコーヒーをいれるときのペーパーフィルターみたいなこと? は?

 はじめは分からなくても『安部公房全集』を丁寧に読んでゆくと、なんとなく分かってくることもある…… (ここで語られていることの意味が分かってくると、そこから先のことも、いろいろと分かってくる…)

 ※ 「原存在」については、ここでは深入りしません。わたしの見立てとしては(この作品に於いては)、「原存在」→「存在」(現実にそこにあること、そのもの)というふうな一般の理解でよいと判断しています。

 ※ 哲学では派生したものに対して根源的なものに「原」の前綴りが用いられます。ここでは「わたしにとっての存在」の〈もと〉になった「存在」というくらいの意味での「原存在」でしょうか。これは一般には「客観存在」と呼ばれているもので、わたしたちはそのような「客観存在」を「存在」と呼んでいます。

 ※ 不要な混乱(解説が難解になること)を避けるために「原存在」を「存在」と表記します(これでよいと考えますが、本当によいかはやや不明…)(このあたりのことは、いずれ「ノート編」などでじっくりと語ってみたい)。

存在―顔―意識の関係

 わたしたちは世界のなかに暮らしていて、世界はさまざまな存在でみちている。わたしたちはそれらの存在(もの)を見たり触ったりすることで意識すること(実感すること)が出来る。その関係を、ここで語られている「存在」「顔」「意識」を使って図にすると……

存在-顔-意識の関係

 (1)存在―顔―意識の関係の図。

 というふうになる。ここで、存在(そこにあるもの)をチーズケーキにしよう。(皆さんはチーズケーキ、お好きですか?)。チーズケーキは大好き! という場合を図1にあてはめてみよう。

チーズケーキが好きなひと

 (2)チーズケーキが好きなひとの図。

 顔の凹凸、つまり顔の表情は「笑顔」になり、意識は「美味しそう、早く食べたい」というようになる。顔を通過することで、チーズケーキがわたしにとっての存在の意味として意識に固定される(わたしもチーズケーキは大好き!)。

 でも、世の中にはチーズケーキが苦手という方もいる。その場合はどうなるかというと……

チーズケーキが苦手なひと

 (3)チーズケーキが苦手なひとの図。

 顔の凹凸(表情)は「ダメ~な顔」になり、意識は「チーズケーキは苦手、見るのも嫌!」というようになる。

 チーズケーキが「好き」なひともいれば「苦手」なひともいる(ひとによってチーズケーキの意味はさまざま)。ということは、チーズケーキはひとにとってさまざまな意味(意識)と結びつく多様な要素を含んだ存在と考えることが出来る。顔はそれらを選択する働きをしているので、フィルターにたとえられるのだろう(わたしの理解です…)。

 ここで大切なのは、その関係が存在―顔―意識の順になっているところだと思う。意識が顔の表情(顔の個性)にあらわれるのではなくて、顔の表情が意識になるということですね。

 このような、存在―顔―意識の関係が哲学的、生理学的に妥当かどうかはここでは問いません(小説とはそういうものなので…)。

 (わたしのイメージだと、このような顔と意識の関係は「悲しいから涙が流れるのではない、涙を流すから悲しくなるのだ」みたいなことになります。また、明るい顔つきのひと、暗い顔つきのひとでは、同じものを見てもその意味はおのずとちがってくるように思われます)

あのぼくとこのぼく

 顔の役割が理解出来たところで(出来ました?)、人間が植物に変形する場合について考えてゆこう。語り手の「ぼく」は、人間から植物への変形をこんなふうに語っている(雑誌『表現』版より)。

 きっと君も被害者[病気の被害者]の一人なんだ。よくあるんだよ、恥のように思って、隠すんだ。お互いに、まるでそ知らぬ顔でいるものだから、みんな自分だけの病気だと思って……、加害者はむろん君自身さ。存在せずに、君をとりまき、君の顔から滲みこんでくるあの君自身さ。

 (……)

 ぼくらの病気はとりもなおさず、あのぼくとこのぼくとが入れちがいになって、顔はあべこべの裏返しになり、意識が絶えず顔の向側へ落っこちてしまう……、それが植物になることさ。

 ※ [ ]は、わたしの補足です。

 う~ん…… 「君の顔から滲みこんでくるあの君自身」とか「あのぼくとこのぼく」って、どういうこと? 安部公房の初期作品は理解にくるしむことがおおい……

 あれこれ考えること小一時間、たぶんこういうことだと思う。さきほどの図1に「あのぼく」と「このぼく」をあてはめてみよう。

客体「あのぼく」と主体「このぼく」

 (4)客体「あのぼく」と主体「このぼく」の図。

 こんなふうになるんじゃないかな(どうだろう…)。対象を意識するには、意識する「主体」と意識される「客体」のふたつが必要になる。これがつまり「あのぼく」(客体)と「このぼく」(主体)ということなのだろう。

 ここでの内と外の関係は、そのあいだに顔をはさむことになっているので、「このぼく」の側で「あのぼく」を知ることは出来ない。「このぼく」が「内」なら「あのぼく」は「外」になる。

 ということで、その顔が裏返るということは…… 次回は人間から植物への変形の過程について語ろう。

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