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鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

安部公房 「デンドロカカリヤ」《5》 変形の過程

安部公房

 安部公房『デンドロカカリヤ』《4》からのつづき(1回目と目次はこちら、登場人物とあらすじは《2》に書いてあります)。

 コモン君が人間から植物に変形する過程を見てゆこう。

植物への変形の過程(詳細編)

 初出の雑誌『表現』版では、コモン君が植物へ変形するときの過程(1回目の変形の様子)が詳細に描かれている。内容を整理しつつまとめてみよう。

1 ある日、コモン君は何気なく路端の石を蹴とばしてみた。「何故蹴ってみようなどという気になったのだろう?」自分の何気ない行為を意識すると…… そのあたりまえなことがいかにも奇妙に思われた。「誰だって知らず知らずのうちにしているさ」独り合点をしたとき、転げていった石を、こんどは(そんなつもりはないのに)別な足が蹴っていた。

2 ざっと音をたてて、コモン君の意識が軽い断層の模型をつくった。すべすべした鏡のような断層面に、そのままの格好をしたコモン君が映っていた。「路端の石を蹴って驚き、想い出せないものを想い出そうと努めながら、断層の鏡に映っている自分を見詰めている自分を見詰めている自分を……」(鏡に映った無限の像のイメージ)

3 「コモン君はふと心の中で何か植物みたいなものが生えてくるように思った。ひどく悩ましい生理的な墜落感」不快だけれど、気持ちよくもあるという。「今度は本格的な地割れらしい」それまで断層の模型だったものが、本格的な地割れになった。地球が鳴っている(どろどろどろ…)。

4 足がぎゅっと地面に引止められた。コモン君は植物になっていた。「ぐにゃぐにゃした細い、緑褐色の、木とも草ともつかぬ変形」「意識の断層は、もう模型どころではない。たしかに自分の外に、空を覆うように巨大な壁が現実に存在していた」巨大な壁に顔を近づけてみると、コモン君の顔は裏返しになっていた。「おめんを裏返しにつけた格好を想像してごらん。(……)顔を境界面にして内と外がひっくりかえる。いやらしいことさ」

 う~ん、シュールです……

意識と身体

 それでは[1]~[5]の過程をひとつずつ見てゆこう。

 ある日、コモン君は路端の石を蹴とばしてみた。その何気ない行為をきっかけにして、コモン君は「何故蹴ってみようなどという気になったのだろう?」と考える。でも、コモン君にはその理由が分からない[1]。

 路端の石を蹴とばす行為は、コモン君の(明示的な)意思、あるいは感情を伴ったものではなかったらしい(もしそうなら、その理由もすぐに分かるはず…)。わたしは《4》で、チーズケーキを例にして顔の役割について語った。これは身体についても同じことがいえる。

 そのときコモン君の「からだ」は、コモン君の「こころ」になにを伝えようとしていたのだろう。つまり、

 チーズケーキ → 笑顔(身体表現) → 意識「美味しそう、食べたい」
 路端の石 → 石を蹴とばす行為(身体表現) → 意識「?」

 ということですね(コモン君の場合をチーズケーキの例にあてはめてみると、チーズケーキを前にして顔はにこにこしているのに、なぜ自分がにこにこしているのか分からない状態に相当します)。

 コモン君は、路端の石を蹴とばす行為の意味を知りたいと思う。でも、分からない。「誰だって知らず知らずのうちにしているさ」と自分を納得させてみたけれど…… 「二三歩先にころげていった石ころを、こんどは別の足が蹴っている」

 コモン君の「こころ」と「からだ」は、互いにうまくかみ合っていないみたい(そうでしょ)。からだは自動人形のように(勝手に)石を蹴りつづけ、こころは物思いに沈み込む。これは、身体と精神が半ば乖離した状態といえばよいだろうか(コモン君、大丈夫?)。

意識の断層と身体のイメージ

 自分の意思とは無関係に足が小石を蹴ったとき、コモン君のこころのなかで、ざっと土砂崩れのような音を立てて、意識が軽い断層の模型をつくった。断層面は鏡のようになめらかで、そこに「そのままの格好をした自分」が映っていた[2]。

 意識の断層? そこに自分が映っている? またしてもよく分からない表現に遭遇。しばらく思案…… 《4》で存在―顔―意識の関係を図にしたように、こちらも図にしてみよう(今回は図にするのがむつかしかったけれど、がんばってみた…)。

意識の断層と自己の身体のイメージ

 (5)意識の断層と自己の身体のイメージの図。

 こういうことじゃないのかな? (わたしの理解です…)意識は〈もの〉ではないので、その表現はどうしても抽象的、観念的なものになってしまう(ならざるを得ない)。でも、シュルレアリスム(超現実主義)の手法では、観念的なイメージを具体的な〈もの〉として表現する。安部公房の考案した「意識の断層」という〈もの〉は、コモン君の内面の仕組みを適切に表現してくれる(さすがです…)。

 意識の断層は意識を意識することから生じたというより、意識と身体の「ずれ」からもたらされたものだと思う(意識と身体の「ずれ」には、こころの病のニュアンスが含まれる)。その断層面に身体の像(姿)が映し出される。意識が身体の器官(眼)を介さずに直接〈もの〉を見ることは出来ないので、この像は虚像(意識がつくり出した身体のイメージ~自己像)ということになる(3回目の植物への変形では、断層面に映った自分の姿のことが「虚像」と表現されている)。

 断層の鏡に映った自己の身体のイメージを見つめるコモン君。鏡に映っているのはコモン君の意識を反映したコモン君なのだから、「断層の鏡に映っている自分を見詰めている自分を見詰めている自分を……」となって…… 無限の繰り返し…… (安部公房らしいレトリック…)

植物のイメージが存在に還元された

 反復される自己の身体のイメージの奥底から立ち現れてきたのは、植物のイメージだった(人間の姿のむこうに植物のイメージがあった)。「悩ましい生理的な墜落感。不快だったが、心持良くもあった」という。「断層の模型」が「本格的な地割れ」になった[3]。

 人間と植物では、存在そのものがおおきく違う。「こころ」(意識)と「からだ」(存在)の「ずれ」は、もう「ずれ」(断層の模型)とは呼べない本格的な地割れになったらしい。地球がどろどろ鳴っている(大地殻変動!)。コモン君は人間から植物に変形する。顔を境界面にして「内」と「外」がひっくりかえる。意識の断層は巨大な壁となり、そこに裏返しになった顔のコモン君が映っていた[4]。

 雑誌『表現』版では、植物への変形が「意識が逆に顔の指向性を辿って原存在に還元されて行った話」と語られている。《4》で見てきたように、顔を通過することで「存在」が「存在の意味」として意識に固定される。還元がその作用の反対だとすると、存在から意識にむかう過程を反転させればよいので、

 存在 → 顔 → 存在の意味=存在+意味(意識)――通常
 存在 ← 顔 ← 存在の意味=存在+意味(意識)――還元

 というふうにになる。意識に固定された「存在の意味」を「存在」に戻すのだから「還元」という表現になるのだろう(化学の実験にたとえると、酸化鉄から酸素を除いて鉄にするみたいなことかな… たぶん…)。矢印の向きから分かるように「還元」は意識を起点にした流れになるので、

 人間の奥から植物が立ち現れる(意識) → 還元 → 植物(存在)――植物病

 となって、自己を見つめる意識のありかたが自己の存在へと反映された(還元された)というふうに理解できる。う~ん、ずいぶんと奇妙な理屈のようにも思われますが…… (この箇所については、既存の哲学の考え方や安部公房のエッセイを参照しつつ、後ほど検討したいと思います)

 裏返った顔が意識を存在へと還元する世界は、わたしたちの日常とはおおきく異なっていた。人間から植物に変形したコモン君の世界は、どのようになっているのだろう。次回は顔が裏返り、「内」と「外」が入れ違いになった奇妙な世界について語ろう。

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