安部公房 「密会」《8》 副院長(馬)
安部公房『密会』《7》からのつづき(1回目と目次はこちら、登場人物は《2》に、あらすじは《3》に書いてあります)。
副院長(馬)について語ってみよう。
悪趣味 地獄 カーニバル
『密会』をはじめて読んだのは、19か20歳の頃だった。それまで安部公房の作品は『砂の女』『箱男』『方舟さくら丸』を読んでいた(と思う)。それらの作品にくらべて『密会』は、物語の舞台がずいぶんと性的に悪趣味なテイストに設定されていて、いくらか戸惑いながら読みすすめたことを覚えている。
安部公房が「著者の言葉」(全文はこちら)で、『密会』を旅行案内に例えて紹介したその行き先は地獄だった。さまざまに趣向を凝らした悪趣味は、現在と地獄とを結びつける(あるいは現在を地獄に転化させる)仕掛のひとつなのかもしれない。
インタビュー「『明日の新聞』を読む」では『密会』のことが「病院の日々が全体としてカーニバルのようなもので」と語られている。カーニバルが日常のきまり事から離れ、羽目を外すことを許された非日常の世界なら、あのような悪趣味も許されるだろう……
悪趣味、地獄、カーニバル(仮装行列、お祭り騒ぎ)。『密会』の世界をかたちづくる裏の顔がそれとなく見えてきた(気がする)。そのような物語世界では、それに相応しい登場人物もまた求められる。他人の下半身をみずからの腰に繋ぎ、二本のペ○スを持つ馬人間はどうだろう?
デフォルメすると失敗する
馬人間の副院長は、物語の冒頭に登場する。でも、そこでの描写は思いのほかさりげない(あからさまではない)。「ぼく」によって記述されたノートから、副院長(馬)を描写したところを少し抜き出してみよう。
相手が馬のつもりでいるらしいので、面と向かってさからいはしなかったが、本物の馬とはかなり隔たりがある。(……)胴がずんぐりと短く、腰が落ち、後脚は便器にしゃがむときの姿勢に近い。あれでは紙細工の鞍だって滑ってしまうだろう。
むむむ…… はじめて読んだときには何のことかよく分からなかったけれど、馬人間の詳細を知り、リアルにその姿を思い描いてみるとなんとも気持ち悪い。おぞましくもあり、滑稽でもある(それでいて、副院長がみずからの容姿を気にかける様子はまったくないという無神経さ…)。
談話記事「『密会』の安部公房氏」で、安部公房は副院長(馬)について次のように語っている。
デフォルメすると必ず失敗する。だから素直にそう見えてくるまで待つ。馬人間にしても、それが自然な形で動き出すようになってはじめて、作品に書けることになるわけだな。
なるほど…… デフォルメには作家の主観が大きく関わってくる。登場人物の造形を意識的に操作することを安部公房は好まない。物語世界を前にして、作家は謙虚であるべきなのだろう(談話記事「小説・芝居並行できつかった」では「作家が書くという行為をつきつめると、不当に作家が自己肥大してしまう。しかし作家よりも物語が先にあるんだ」とも語っている)。
安部公房が描く登場人物たちは、それぞれに個性的(独創的)でありながら、誰もがしっくりとその世界に馴染んで見える(わたしにはそのように感じられる)。あらかじめつくられた(設定された)登場人物ではなく、物語世界のなかから見えてきた(発見された)登場人物たちだからこそ、あのように自由でいきいきとふるまうことが出来るのだと思う。
弱者と怪物
『密会』をはじめて読んだあの頃も、そしていまも、副院長(馬)のキャラって生理的に苦手だなあと感じている(副院長に好感を持つ方っていらっしゃるのかな?)。だからといってその行為や倫理観までも非難しようとは思わない。
6日目の夜、「ぼく」は副院長(馬)宅に遅い夕食に招かれる。行方不明になった妻や溶骨症の娘の行方についての会話は、たがいに平行線をたどったまま噛み合うことはない。
それでも「ぼく」は「ぼくも、馬も、ありったけ傷ついていた」とその内面を想像し「もしいつか、馬を許せるほど寛大な気持ちになれた時、(まず見込みはなさそうだが)彼のために立ったまま休める椅子を設計してやりたいような気もする」といくらかの配慮をみせる。そこには、副院長(馬)に対する、否定一方ではないニュアンスが感じられる。
副院長(馬)は、妻誘拐の首謀者かもしれないのに、どうして?
インタビュー「構造主義的な思考形式」で安部公房は、馬人間である副院長について「それが強者になっているか弱者になっているか、すごく微妙ですよ」と語る。また「『明日の新聞』を読む」では、ローレンツ「理想的人間像」との対比から「自己の患者化にひたすら情熱を傾けている医者に管理されているこの《病院》のほうが、はるかに人間的だし、まだ耐えられる世界ではないだろうか」と語っている。
夕食の席での副院長(馬)の語りを引用しよう。
医者の孤独はいわば患者の権利なんだな。それでもなお医者が孤独から逃れようと思うなら、仕方がない、自分も同時に患者になって、二重の資格を取得するしかないだろう。(……)イ○ポテンツでさえ、それだけ患者に近付いたしるしだと思えば、むしろ慰めになったくらいさ。
まったくの悪趣味としか思えない「馬人間」も、他人の下半身を接合することによるイ○ポテンツの治療(これは臓器移植の一種なのだろうか?)と考えれば、そこに患者(弱者)としての側面が見えてくる(このブラックユーモアをどんなふうに語ればよいだろう…)。
前夜祭の怪しげな見世物会場で「いつになったら健康の醜さを理解出来るようになるんだ。動物の歴史が進化[適者生存]の歴史だったとすれば、人間の歴史は逆進化[弱者を包含しようとする文化]の歴史なんだよ」と副院長(馬)は語る(※ [ ]は、わたしの補足です)。
怪物万歳さ。怪物というのは偉大な弱者の化身なんだ。
生理的な嫌悪感から視線をそらしたとしても「偉大な弱者の化身」である馬人間の存在までも消し去り、否定することは出来ない。裏からみた(裏から描かれた)ユートピアに、これほどお似合いの登場人物もそういないだろう(でも、やはり気持ち悪いよ…)。
(今回の記事は、いつもより自由に思いつくまま語ってみた。副院長=馬人間の奥深い造形を感じとっていただければさいわいです)
次回は女秘書について語ろう。
- 次回 「密会」《9》 女秘書
- 前回 「密会」《7》 続・創作の過程
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