鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

安部公房 「密会」《9》 女秘書

 安部公房『密会』《8》からのつづき(1回目と目次はこちら、登場人物は《2》に、あらすじは《3》に書いてあります)。

 女秘書について語ってみよう。

女秘書登場

 女秘書(副院長の秘書)と「ぼく」がはじめて出会う場面をみてみよう(小説のページの順ではじめに登場するところではないことに注意、時系列で並びかえたあらすじ《3》では通し番号[05]、〈ホ四〉号棟での出来事のところになります…)。

 女秘書の容姿、印象について、「ぼく」はこんなふう描写している。

 わずかずつ形が違う白衣を着た三人の男が降り立った。いや、二人は男で、一人は髪を短く刈り上げた少年ぽい感じの女だ。

 (……)

 年齢は二十代の後半、くりくりと筋肉が硬そうな色の浅黒い女性で、いかにも勝気そうだが、上から髪型で判断したほど男っぽいわけではない。

 すくない言葉の組み合わせながら、女秘書のイメージがよく伝わってくる(女秘書のキャラを溶骨症の娘のキャラの特徴、少女、エロティック、従順などと対比してとらえることも可能だろうか…)。

試験管ベビー

 女秘書も『密会』(病院都市)の登場人物にふさわしく、《8》で語った副院長(馬)と同じようにふたつの側面を持っている。彼女は副院長の秘書であると同時に患者でもあった。

 女秘書の健康そうな容姿から病気の気配は感じられないけれど…… 副院長(馬)は「ぼく」を遅い夕食に招き、そこで女秘書の詳細が語られる。

 「試験管ベビーなんだ」(……)「天涯孤独を地で行ったような娘さ」
 「合成人間ってわけじゃないんでしょう」
 「母親は死んでいた。死んだ直後に摘出した成熟卵から育ったんだ。父親は精液銀行から貸し出した一CCの混合精液だ。彼女には肉親の感覚というものがまったく欠けている。人間どうしの関係感覚とでも言うべきものが、完全に欠落してしまっているんだ」

 そうなんだ…… 「ぼく」のノートの記述によると、女秘書は「感覚失調を伴う奇病」で「人間関係神経症」の一種ということらしい(この「人間関係~」は安部公房の造語で正式な病名ではありません)。

 ここで語られている試験管ベビーとは(ご存知とは思いますが)、いまで言うところの体外受精によって生まれた子供のこと。

 体外受精の歴史をちょっと調べてみたところ、体外受精ではじめて子供が誕生したのは1978年だった。『密会』の出版が1977年なので、体外受精による初めての子供が生まれるより早く、作品にその子供(試験管ベビー)を登場させたことになる(これってちょっとすごくない?)。安部公房のテクノロジーへの関心の高さがうかがわれて興味深い。

試験管=人工子宮?

 小説としては最も早い時期に試験管ベビーとして描かれた女秘書ではあるけれど、よく読むと実際の試験管ベビーとは、ちょっと違うような…… (というか本質的なところで違ってないか?)

 女秘書については、さきほどの副院長の語りの他に「純粋試験管育ち」「試験管を母にして育った」とも語られている。そのことと「肉親の感覚」や「人間どうしの関係感覚」が欠如しているとの説明から考えると、ここでの「試験管」には「人工子宮」のニュアンスがあるように思う。

 つまり、女秘書は試験管(人工子宮)のなかで(あるいは研究施設のなかで?)育てられたため、「人間どうしの関係感覚」が欠落してしまったということなのだろうか? 女秘書の過去には、いまひとつよく分からないところがある。

 (小説は論文ではないので、そこに小説世界でのリアリティがあればそれでいい。言葉の正しい意味や理解とはあまり関係がない…)

他者 愛を求めるこころ

 安部公房はインタビュー「都市への回路」で、女秘書についこんなふうに語っている。

 女秘書を書いているときの感覚は、むしろ強者でありながら弱者だという感じだったね。愛される権利を主張し続けるわけだけど、こればかりはいくら権利主張しても、どうしようもないわけだろ。そこからくる一種のニヒリズムが、行動をかき立てる原因になっているような気がする。そこから憎しみの原理というようなものが発生してくる。(……)求めているものはつねに愛なんだ。けっきょく、自分の内部に他者を喪失した状態というか……

 なるほど、身勝手な愛と言ってしまえばそれまでですが…… でもそれは生まれたときからの「人間関係中枢」(こちらも安部公房の造語です)の障害(欠落)が彼女をそのようにさせているわけで…… そのように考えると、どこか切なくもあり、残酷でもある。

 安部公房はそんな女秘書を「自分の内部に他者を喪失した状態」と分析する。でも、わたしはもう少し違ったふうに考えている。彼女の内部にもたしかに「他者」は存在する。でもそれは、わたし達の知っている「他者」とは違い、奇妙にゆがんでしまっている。それはゆがんだレンズの眼鏡をかけて世界を見ていることに似ている。彼女にはまっすぐなものが曲がって見え、垂直なものが斜めに傾いて見える。

 水の底に沈んだコインを拾うときのことを考えると分かりやすいかもしれない。水中のコインにむかって、コインが見えている位置に手を伸ばしても、コインをつかむことは出来ない。それは光が水面で屈折して(ゆがんで)しまうからなのだけれど、その理由を知っていても、コインはたしかにそこにあるようにしか見えない(知識として知っていても、それで見え方がかわるわけではない)。

 通常の世界を知っていて、そのような眼鏡をかけたのなら、むむ、これはなにかおかしいぞ、と自らを洞察することも出来るかもしれない。でも、そのゆがみが生まれつきのもの(あるいは幼いときに生じたもの)だとすると、そのことを自ら洞察することはほぼ出来ない。

 「いずれ彼女には理解出来ないだろう」と副院長(馬)は「ぼく」に語る(でも、それ以上の説明はしない…)。安部公房は、このような個人の内面の問題に深入りしない(安部公房はある意味大人な作家…)。

 女秘書が「ぼく」に語ったひと言を引用しよう。

 奥さんだと、そんなふうに庇ってもらえる[愛してもらえる]のかな。

 ※ [ ]は、わたしの言い換えです。

 「ぼく」からの愛が得られないのは婚姻関係とは別のことだよ、と女秘書に語りかけてみてもはじまらない…… 女秘書は彼女の正しさのなかをありのままに生きている(人とはそういうもの…)。

 女秘書のような人物が身近にいればいろいろと困ったことに巻き込まれてしまうかもしれない(怖いよ…)。でも『密会』の物語世界では、彼女はとてもいきいきとして見える。わたしは彼女のようなキャラを嫌いじゃないな…… (小説とはそういうもの…)

 次回は作家の仕事部屋を、ちょっと覗いてみよう(intermission)。

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