鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

安部公房 「密会」《5》 巨大病院と良き患者

 安部公房『密会』《4》からのつづき(1回目と目次はこちら、登場人物は《2》に、あらすじは《3》に書いてあります)。

 『密会』の舞台となった巨大病院とその背景について語ってみよう。

都市のイメージと巨大病院

 安部公房の作品では、都市のイメージが繰り返し描かれてきた。「小説・芝居並行できつかった」では、都市をキーワードに『砂の女』(1962)から『密会』(1977)までの作品をこんなふうに語っている。

砂の女(1962)――「農村共同体で閉鎖空間だが、裏返しにした都市の構造とみることができる」

他人の顔(1964)――「都市生活の中の、開かれているけれどどこに行っても同じ迷路のような状態」

燃えつきた地図(1967)――「内面的には閉鎖されているが、歩いていける空間」

箱男(1973)――「男が箱の中に閉ざされていることを通じて無限定の世界を見る構造」「都市の構造に一歩ずつ近づいている気がするね」

密会(1977)――「正面から都市そのものを対象にしていると思う」

 さすがは安部公房、まとめ方が上手いですねぇ(どのような評論家も、これらの作品群をこんなふうに端的に語ることは出来ないだろう…)。

 新潮社テレホン・サービス「自作を語る」では、『密会』のことが「われわれが今おかれている現代という構造、これは非常に病院の構造に似た面があって、人間がその中で疎外されていっている側面に、事件として、出来事として次々ぶち当たるわけだ」と、紹介されている(『密会』は、巨大病院の奇妙で不気味な世界を描くことで、都市の構造が透けて見える仕掛けになっている)。

 病院での医者と患者の関係は「普通のわれわれの社会における管理するものと管理されるもの」の関係に似ていて、そのような「管理する」「管理される」ことによって自立した人間ではなくなってしまうという。

 『密会』は、医者と患者、管理する者と管理される者の役割がときに交代しつつ物語が展開してゆく。医師である副院長は、特殊なコルセットを装着した患者(馬)であり、盗聴により監視されていた「ぼく」は、やがて盗聴を管理する側の警備主任となる(表が裏になり、裏が表であるような、メビウスの輪を連想させるイメージ…)。

弱者と強者

 安部公房はインタビュー「都市への回路」で、市民社会のなかの強者と弱者の関係について次のように語っている。

 強者というのは、リーグ戦でやっていけば、一人だけ残って、あとは全部弱者でしょう。強者が少なくて弱者が多い、社会関係を抜いて考えると、そうなるんだ。ところが現実の社会関係の中では、必ず多数派が強者なんだ。(……)強者と弱者の規定の仕方自身が、社会的に考えた場合と、非社会的に考えた場合とでは、ひどく変わってくる。

 なるほど……

 談話「裏からみたユートピア」では「弱者」について「人類の歴史は弱者の生存権の拡張だった」「弱者をいかに多く取り込むかが文明の尺度だった」と語られている。

 適者生存の世界(自然界)だと、弱者は淘汰されてゆく仕組みになっている。しかし、わたしたちの暮らす社会では、弱者も最大限そのなかに取り込まれてゆく。市民社会のもとでは、多数の弱者が社会構造を持つようになると、そこに強者としての側面が立ち現れてくる。

良き患者

 『密会』は病院が舞台になっていて「そこで「良き患者」という概念がそのパロディとして出てくるわけだ」と安部公房は語る。

 「良き患者」というのは、患者の中の強者だ。しかし、患者は本質的に弱者でしょう。にもかかわらず「良き患者」が強者だというパラドックス。読者が読み違える一番の落とし穴もそこにあるかもしれない

 弱者-良き患者-強者の関係については「共同体の中に逆らわずに引き返して、決められた場所の穴の形に自分を合わせたい」という心理がそこに働くからであり、それは強者への願望と似通ったところがあると安部公房は指摘する(個人としての弱者は、共同体に属することで強者となることが出来る… 共同体にその居場所を見つけることが出来れば、弱者であることの不安から逃れ強者の安心を得ることも可能だろう…)。

 『密会』の市街地までもその内部に取り込んだ巨大病院は(入院はあっても退院はありえないかのような)閉じた世界として設定されている。そこでは、わたしたちの暮らす社会の「健康」の概念が反転して「患者」(良き患者)であることが求められている。

 なんとも奇妙で、気持ちのわるい世界ではあるけれど、わたしたちがこちらの社会から読者として『密会』の世界を眺めるのではなく、そのはじめから患者としてそのような病院世界に暮らしていたとしたら、それほど奇妙なものには思わないかもしれない。あるいは、他のおおくの患者たちと同じように「良き患者」として振る舞おうとするかもしれない(そこに暮らすというのは、結局そういうことではないだろうか…)。

 インタビュー「『明日の新聞』を読む」から、いくらか引用しよう。

 健康を常態として自認する世界がかならずしも居心地のいい世界だとは限らないでしょう。たとえばその極端な例として、ヒットラーによってイメージされた「優秀民族」の王国。健康を単なる患者の夢としてでなく、事実上の尺度として認めたとたん、たちまちナチス的人種差別主義が頭をもたげはじめるのだからやりきれない。

 安部公房は『密会』のことを「もの凄く美しく地獄を書こうとした、とも言えるし、また、ユートピアを裏から書いたとも言える」と語っている。

 次回は創作の過程について語ろう。

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