鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

安部公房 「箱男」《番外編2》 コメント依頼 みしまるももについて

 安部公房箱男《番外編1》からのつづき(本編はこちら)。

 最近、Wikipedia: コメント依頼/みしまるもも_20140528 から、こちらのブログにいくらかのアクセスがあるようです。調べてみると、わたしの「箱男」《番外編1》が取り上げられ(取り上げて下さった方、ありがとうございます)、また、みしまるもも氏がそのことについて、いくらか語っていらっしゃることが分かりました。

 ざっと読ませて頂いたところでは、みしまるもも氏は、こちらのブログで語られている内容に異論がおありのようです。わたしと違うご意見は、いろいろと勉強になることもあるので、いくらか語ってみたいと思います。

あらすじ「再びぼくは病院を訪ねた」の箇所

 「書いているぼくと 書かれているぼくとの不機嫌な関係をめぐって」の章からみてゆこう。Wikipedia: コメント依頼/みしまるもも_20140528 から引用します。

 また、私のあらすじの、一番目の「海水浴場のシャワーで身奇麗にして~」が、「ぼく」のシミュレーションや空想だと、そのブログ主さんは言っていますが、それはその方の解釈であり、それが「現実」か「空想」かは、はっきりしていません。元々そういうふうに、どちらか不明な断片の寄り集まった構成の作品なので、その後段の2番目の「海水浴場のシャワーで身奇麗にして~」との辻褄を求めること自体が、おかしいのではないかと私は思います。

 「元々そういうふうに、どちらか不明な断片の寄り集まった構成の作品なので」というようなことは、わたしが《番外編1》で指摘したことです。みしまるもも氏が編集された「ウィキペディア 箱男」に、そのような「解説」は書かれていないようですが…… わたしの指摘を「自分の考え」であるかのように「すり替えて」語るのはいかがなものでしょうか(調子のよろしいことで…)。

 「書いているぼくと書かれているぼくとの不機嫌な関係をめぐって」が、空想(ノートに書かれた虚構)というのは、わたし独自の解釈でしょうか? わたしが語るよりも論文の方が客観性があってよいと思うので、清末浩平氏修士論文東京大学言語文化学科)「『箱男』論《5》シミュレーション――可能性の消尽とテキストの自立=自律」 http://42286268.at.webry.info/201201/article_50.html から引用します。

 〈14〉[書いているぼくと 書かれているぼくとの不機嫌な関係をめぐって]では「ぼく」は、夜明け前の「海水浴場」におり、箱から出て病院に行くために全身を洗って衣服の洗濯をした後に、箱の中で「彼女」や医者=「贋の箱男」との会話のシミュレーションをテキスト化してゆく。
 それはまず自分の話す言葉のモノローグから始まり、「彼女」とのダイアローグになり、そして「贋の箱男」が会話に参加してくるとき、過去形が偽造される(「贋箱男が口をはさんだ」下線引用者)。
 「贋箱男」は「ぼく」と「彼女」が病院で一緒に暮らすことを認める代わりに、彼らの共同生活を「覗く自由」を与えてほしい、と「ぼく」に要求するのだが、それは「ぼく」と「贋箱男」との間で実際に行われた会話を後にテキスト化したものではなく、箱を脱いで「贋箱男」や「彼女」と共生できるかということを、「ぼく」がシミュレートして考えているだけなのである。
 ここでテキスト化される出来事は、「ぼく」によるシミュレーションにすぎない。

 ※ [ ]は、わたしの補足です。

 ということです。もういちど繰り返します、この章に描かれているのは「実際に行われた会話を後にテキスト化したものではなく」「シミュレーションにすぎない」ということです。この箇所を「現実の出来事」(実際にあった出来事)と解釈する余地は(ほぼ)ないように思われるのだけれど…… (この章の後半で展開される奇妙な会話を「現実の出来事」として解釈することは、はたして可能だろうか? 皆さんはどのように思われますか?)

 みしまるもも氏の

 それが「現実」か「空想」かは、はっきりしていません。

 という見解は、どうなのでしょうか。それは、いくらか恥ずかしい見解のようにも思われますが…… なぜ?

 「書いているぼくと~」を読まれた方は分かると思いますが、この章はずいぶんと長い(旧文庫本で約49ページ)。この章が長いことには理由がり、その「長さ」に作者の意図が隠されているように思われます。清末氏の論文にあるように、この章は「ぼく」のモノローグからはじめられ、やがて贋箱男とのダイアローグに展開されます。たっぷりとページ数を使ってモノローグからダイアローグに(巧妙に)展開することで、それらの記述が「現実の出来事」であったかのように読者を錯覚させます(その効果を持ちます)。

 みしまるもも氏は、安部公房の仕掛けたレトリックの「罠」にはまってしまったということではないでしょうか(そして、そのことにいまも気がついていらっしゃらないらしい…)(う~ん…)。

 参考:わたしは、この章について《18》で「入れ替わる空想と実在」と小見出しをつけて語っていますが、これはこの章が「空想」と「実在」(実際に起きたこと)ふたつの側面があるということではありません(あるいは、みしまるもも氏はここを読まれてなにか勘違いされたのか…)。

パターン 1
実在――元カメラマンの箱男「ぼく」がノートを書いている
空想――ノートに書かれている贋箱男(「ぼく」の空想としての贋箱男

パターン2
実在――箱男がノートを書いている(贋箱男が元カメラマンの「ぼく」になりすまして、「ぼく」の空想という設定でこの章を書いている)
空想――ノートに書かれている元カメラマンの「ぼく」(贋箱男の空想としての「ぼく」)

 と、いうことです(実在と空想の関係が入れ替わるということですね)。普通に読むと(素直に読むと)「パターン1」のようなことですが、この章後半の奇妙な記述は「パターン2」の可能性を示唆しているように思われます(わたしの推理)。

 仮に、この章の記述を「現実の出来事」(実際にあった出来事)として論じるなら、そのような解釈を可能にする論拠(ウィキペディアの方針からの「信頼できる情報源から検証可能性を満たした形での出展」)が必要でしょう(大切な指摘)。

あらすじ「Cは箱男の箱を利用し~ 擬装しようと考えていた」の箇所

 みしまるもも氏は次のように語られています。

 文庫本の解説では、「医者であるこの男は、箱男として贋ものであるがゆえに医者としても贋医者となってほんものの医者、軍医殿の登場を促し、今度は逆に軍医殿がほんものの医者であるがゆえに、ほんものの箱男になり、したがって記述者の地位をも贋箱男・贋医者から奪い返して、<死刑執行人に罪はない>の筆者になる」、また「軍医殿が贋医者によって殺されることによって作中人物と化し、記述者として失格する」とも解説していますから、軍医が、この小説の冒頭からの話者(箱男)や、その後の話者(箱男)とは規定し難く、「軍医」=「箱男」(主人公、記述者)とは、明確な図式にはなっていないと思います。

 なにがおっしゃりたいのか……??? わたしの記事《番外編1》の小見出しは「2 あらすじ「Cは箱男の箱を利用し~ 擬装しようと考えていた」の箇所」となっています。わたしが問題にしているのは、あらすじの「Cの場合」および「死刑執行人に罪はない」の章に該当するところです(詳細は《番外編1》を参照)。作品全体を問題にしているわけではありません(このような論点のすり替えは、わざとやっておられるのですか?)。わたしは「軍医が、この小説の冒頭からの話者~」というようなことを語っていません。また、わたしは、「軍医」=「箱男」(主人公、記述者)とは表記していません。軍医殿=箱男 と書いています(このようなことは、わざとやっておられるのですか?)(わたしが語っていないことを、語ったように書かれるのはいかがなものか)。

 わたしがここで論じているのは、「Cの場合」「死刑執行人に罪はない」での、文章として描かれている軍医殿です。「Cの場合」で軍医殿と「箱男のノート」が結びつけられます。そのことからの帰結としての「軍医殿=箱男」の関係です。

 「Cの場合」「死刑執行人に罪はない」の章で描かれている軍医殿と箱男の関係~解釈は(わたしの考えでは)、ふたつに分かれます。

  1. 軍医殿は箱男である。
  2. 軍医殿は箱男ではない。

 これまでは[1]軍医殿=箱男という方向で読まれてきました。解説や論文からもそのことがうかがえます(詳細は《番外編1》《番外編3》参照)。でも、わたしはそれとは違う読み方が出来るとことを、こちらのブログで語りました。これらの章で、軍医殿が箱男だったの? と読者が思ってしまうのは安部公房の「叙述トリック」ではないかという指摘です。

 この「叙述トリック」の箇所は、いってみれば、わたしの「研究成果」なわけですね。わたしの心情としては、『箱男』に対する理解が十分でない方に(よく分からないまま)、わたしの記事からその内容を「つまんでほしくない」ということです。これは《番外編1》で語った「箱男の中の人物の謎へのヒント」の箇所についても同じです。

 (他の方にしてみれば、まあ、些細なことかもしれませんが… これらのことは、わたしのささやかな人生のなかで「大切にしていること」のひとつです。自分の頭で時間をかけて考えたことですからね。記事も、皆さんに楽しんで頂けるように、あれこれと工夫しながら書きました)

 軍医殿が箱男である場合とそうでない場合とでは、当然、あらすじの表現もかわってきます。軍医殿が箱男である場合は、「Cは箱男の箱を利用し~ 溺死に擬装しようと考えていた」とはなりません。

 みしまるもも氏は、

 私が「あらすじ」において「擬装しようと考えていた」と書いたのは「原作の中身に沿って」書いたことです(……)

 と語られ、その論拠として

  1. 「溺死に見せ掛ける準備はとりあえずととのった」
  2. 「ズボンと長靴をはかせるのも、箱をかぶせる前の方がいいだろう」

 の二箇所を本文から引用されていますが…… みしまるもも氏は、この箇所がなぜそのように表現されているのか、作者の意図が理解できていないようです(う~ん…)。[1]「溺死に見せ掛ける準備は~」は、「見せ掛ける」と明確に「偽装」と分かる表現が使われています。では、箱のところはどうかというと、[2]「ズボンと長靴をはかせるのも、箱をかぶせる前の方がいいだろう」としか書かれていません(ここは大切なポイントです)。

 例えばここが「ズボンと長靴をはかせるのも、箱男に偽装するための箱をかぶせる前の方がいいだろう」と、丁寧に書かれていれば分かりやすいと思うのだけれど、なぜそのように表現されていないのでしょう?

 「死刑執行人に罪はない」のところに書いてあるのは、軍医殿の死体に箱をかぶせる予定になっていたということだけであり、それが「箱男への偽装」であることの直接的な表現は確認できません(軍医殿に箱をかぶせる予定であったことだけが「明確」に書いてあります)。なぜなら、軍医殿が箱男だとすると、その軍医殿に箱をかぶせる行為は「箱男への偽装」ではないから。安部公房はすべてを計算して、レトリック(巧妙な言いまわし)を組み立てているわけです(さすがですね、安部公房)。

 それから

 贋医者が軍医を殺して~ 原作にありますので

 は適切な説明とはいえないでしょう。「死刑執行人に罪はない」の章は、一人称でありながら、そこには「そしてぼくは死んでしまう」というような記述があります。軍医殿が贋医者に(実際に)殺されたとしたら「ノートを書くこと」は、もちろんできません。

 だとしたら、これらの記述は軍医殿の空想にすぎないのでしょうか(そうなの? 殺されていないからこそノートを書くことが出来ます)。それとも、死んで幽霊になった軍医殿がノートを書いたのでしょうか(それはちょっとね… オカルト的解釈)。あるいは、軍医殿以外の誰かが軍医殿になりすまして書いたのかもしません(巧妙だな… 探偵小説の視点)。

 正しい答えはもちろん分かりません(軍医殿が生きているのか、死んでいるのかも、明確には分かりません…)。『箱男』を探偵小説の視点で眺めれば、そこに「回答編」は存在しません。みしまるもも氏の語られる「贋医者が軍医を殺して~」は、説明として正しくありません。

 また、「Cは~ 考えていた」という表現も(客観的なあらすじとしては)正確さを欠くものでしょう。軍医殿の殺害やその計画は、軍医殿が「ぼく」として語っているにすぎません。C=贋医者は、軍医殿の殺害はもちろんのこと、その計画について直接語っている記述はありません(大切な指摘)。

 つまり、「Cは~ 考えていた」というのは、軍医殿の「語り」からの「推測」ということになります(わたしの「あらすじ」では、この箇所[01]に「わたしの推理」といれてあります)。贋医者の記述、「供述書」「続・供述書」を読むと、贋医者は軍医殿の死(変死)について、(表面上は)自分は無関係という立場をとっています。「供述書」が本物ではないとしても(練習?)、そこにはさまざまな推理が成り立ち、いろいろな意見があるでしょう。

 『箱男』は、奥が深い……

 さらに奇妙に思われるのは、ここは軍医殿が語っているパートなので、それを「あらすじ」に書くとすれば、「Cは~ 考えていた」ではなく「軍医殿は~ 考えていた」と表現するのが普通ではないでしょうか? みしまるもも氏は、なぜそれを(変則的に)「Cは~ 考えていた」としたのでしょう?

 わたしの「あらすじ」では「事件を起こす側、贋医者(贋箱男)の側からストーリーを見ていった方が分かりやすいように思う。変則的ではあるけれど、そちらから、わたしの推理を交えつつ語ってみよう」と前置きして、[01]「贋医者は~ 考えている。(……)(わたしの推理)」となっています。この表現の奇妙な一致は、偶然なのでしょうか? (偶然でなければ、その理由は明らかでしょう…)

まとめ(結論と感想)

 みしまるもも氏のあれこれと「的を外した発言」は、氏が実験的で独創的な小説『箱男』を適切に理解していないことを意味するでしょう。作品に対するこれらの不十分な理解から、わたしが《番外編1》で指摘した

  1. あらすじ「Cは箱男の箱を利用し~ 擬装しようと考えていた」の箇所
  2. 作品評価・解説「箱男の中の人物の謎へのヒント」の箇所

 について、そのような言説を氏が自ら導くことは不可能であり(デタラメな理解から整合性のある推測や結論は得られません)、それらが『箱男』シリーズからの「剽窃」(盗用)であることが確定したといってよいでしょう(わたしの結論)。

 『箱男』の最終ページには、箱男の箱について「いったん内側から眺めると、百の知恵の輪をつなぎ合わせたような迷路なのだ」との記述があります。「百の知恵の輪の迷路」を解くことは誰にも出来ないでしょう。その解けない迷路(謎)こそが『箱男』の魅力なのだと思います。それを「単純な知恵の輪」のように語ることは、作品に対しても、作家安部公房に対しても誠実な態度とはいえないでしょう。

 ウィキペディアはおおくの方に参照されます。その内容は、できるかぎり「良質なもの」が求められるでしょう(わたしの理想論)。国際的作家、安部公房の名作『箱男』がこんなことでいいのか? と考えはじめると、なんだか悲しいものがあります(ウィキペディアを読まれた方が、この作品はこんなふうなものなだと単純に思われたとしたら残念だな…)。

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