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鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

安部公房 「箱男」《18》 空想と存在の確かさ

安部公房

 安部公房『箱男』《17》からのつづき(1回目と目次はこちら、登場人物とあらすじは《2》に書いてあります)。

 元カメラマンの箱男「ぼく」が確かに存在していることのあやうさを、文章のディテールから探ってみよう。

犯人は語りすぎるものかもしれない

 「安全装置を とりあえず」から、こちらの文章に注目してみたい。ここでの「ぼく」は「運河をまたぐ県道三号線の橋の下で、雨宿りしながら」ノートを書いている。「もともと箱男は」と書いたところで、突然その記述が中断する。

 インク切れによる中断。小物容れから古鉛筆を探し出し、芯を削るのに、二分半経過。さいわいぼくはまだ殺されていない。その証拠に、ボールペンから鉛筆に変わりはしたが、字体はそっくり前のままである。

 なるほど…… と言いたいところだけれど、よく読むとこの文章、少し不自然ではないだろうか? (ここでの「字体」は「筆跡」くらいの意味かな。「字体」本来の意味からすると「旧字」「新字」みたいなことになるけれど、それはちょっとおかしいよね…)

 「ぼく」は、自分が殺されるかもしれないと気にかけつつ、ノートを書いている。では、もし「ぼく」が実際に殺害されたとしたら、このノートはどうなるだろう?

 「拾い主がそのつもりになれば、ひと財産になってくれるはずである」と語られているように、このノートは犯人にとって不都合な存在(犯罪の証拠)になっている。「ぼく」を殺害したあとの死体のあとしまつはなかなかむつかしくもあるけれど、ノートであれば簡単に破棄すること(燃やしてしまうなど)が出来る(普通だったらそうするよね…)。

 だとすると「字体(筆跡)はそっくり前のままである」という「ぼく」の説明は、なんかおかしくないか? 「字体(筆跡)が前のまま」ということは「字体(筆跡)が前のまま」ではなかった可能性があることを意味している(そうでしょ)。字体(筆跡)がちがうということは、別の誰かが「ぼく」に代わってノートを書いているということであり、「前のまま」と述べることで「ぼく」はその可能性を否定している。

 その発想は、どこからもたらされたものだろう? 「ぼく」に代わって別の誰か(つまり犯人)がノートを書くという発想そのものが、この「ぼく」の状況から考えてあり得ないことのようにわたしには思われるのだけれど……

 このことから推理すると、このノートを書いているのがすでに「ぼく」ではない可能性が考えられる(犯人が「ぼく」に代わってこのノートを書いているとしたら、気を利かしたつもりの小細工が命取り、みたいなことかもしれない…)。

考えていることが文章になる

 わたしは文章のディテールに、いささかこだわりすぎているだろうか? どうだろう…… これを安部公房のうっかりミス(サービスのしすぎ?)と考えることも出来るかもしれない。

 それが安部公房のうっかりミスだとしても、そのことの意味は変わらないように思う。文章というのは考えていること、こころに思っていることが表現される。考えてもいなこと、こころに思っていないことは文章にあらわれない(あらわれようがない)。

 「字体~」は、少なくとも安部公房がそのようなアイデア(犯人が「ぼく」になりすましてノートを書くという行為)を考えていたということの確かな証拠ではないだろうか(そのようなことを考えていなければ、あのような表現にはならないだろう…)。

「ぼく」の空想の確かさ

 「書いているぼくと 書かれているぼくとの不機嫌な関係をめぐって」では「こんな朝っぱらから、何しに来たのかって?」以降、元カメラマンの箱男「ぼく」の空想が語られる。ここでは「ぼく」が空想した贋箱男(贋医者)の次の台詞に注目してみたい。

 かれこれ一年になるかな。彼女[看護婦]が子供を堕しに来たのが、そもそもの馴れ染めでね。手術が済んでしまってから、やおら金がないので、働いて返させてくれだとさ。

 ※ [ ]は、わたしの補足です。

 贋箱男と看護婦は「ぼく」の空想という設定なので、何を語らせようと自由ではありますが…… 「鏡の中から」から「ぼく」の看護婦についての回想を引用しよう。

 肩の手当の後で、切々に聞かされた身上話を綴ってみると、おおよそ次のようになる。(……)二年前に、この病院で妊娠中絶の手術を受けた。(……)予後が思わしくなく、三か月ばかり無料で入院させてもらっているうちに、それまでいた看護婦がやめ、代わりになんとなく居ついてしまうことになった。

 似てはいるけれど、そのニュアンスはずいぶんと違っている(一年と二年の違いは単純ミス?)。看護婦の身上話として「ぼく」の気をひくのが目的なら、後者のように語るのが効果的だろう。でも、実際のところは前者のような話の方がリアルではある……

 この場合、「ぼく」が知り得ている情報は後者のみであり、前者の贋箱男の台詞については「ぼく」の空想ということになる。

 病院に来る前の彼女は「貧しい画学生」であり「無料で入院」ということから「お金がない」という推測も可能ではあるけれど(かといってかならずしもそうとも言い切れない…)、後者の話から贋医者の台詞「やおら金がないので、働いて返させてくれだとさ」を書くのは、なかなかのイマジネーションではないだろうか(そうそう出来るものではないという気がする)。ゼロからの空想は自由に出来ても、いちど知り得たことからの飛躍はむつかしい……

入れ替わる空想と実在

 ここでの贋箱男と看護婦には「ぼく」の空想とは思えない出来のよさ(リアリティ)がある。贋箱男のリアリティ(存在の確かさ)は、現実にノートを書いている(と思われる)元カメラマンの「ぼく」の実在を脅かすような問いかけとなって展開されてゆく(面白い!)。

 「(……)もし今ここで、ぼくが書きやめたら、次の一字一句だって、出てきはしないんだ」
 「……と、誰か別の人間が、どこかの別の場所で書いているのかもしれない」
 「誰が?」
 「たとえば、ぼくだっていい」
 「あんたが?」
 「そう、ぼくが書いているのかもしれない。ぼくのことを想像しながら書いている君を想像しながら、ぼくが書きつづけているのかもしれない」

 わたしは、ここに『箱男』の本質が隠されているように思う。ノートを書いている元カメラマンの「ぼく」が実在するためには、贋箱男が「ぼく」の空想でなくてはならない。でも少し視点をかえるだけで、この関係を逆転することも可能だろう。

 贋箱男が実在の箱男になるとき、ノートに書かれている「ぼく」は空想の存在にすぎなくなる。安部公房が好んで例に挙げていたメビウスの輪のように、ここでは実在と空想が同一平面上で互いに転換可能なようにデザインされている(2通りの実在~空想が決定不可能なまま共在している)。ノートに記述された登場人物とノートの書き手の関係を図にすると次のようになる。

実在する書き手 元カメラマン「ぼく」 or 贋箱男(贋医者)

 実在する書き手――元カメラマン「ぼく」 or 贋箱男(贋医者)の図。

 ここで大切なのは矢印の起点がノートにあることだと思う。実在の世界(現実)は一通りしかないので、ふたつの出来事〈元カメラマンの「ぼく」がノートを書いている〉〈贋箱男=贋医者がノートを書いてる〉が共在することは出来ない。ノートに書かれた記述を起点にして登場人物たちが実在の世界を語ることで、決定困難なふたつの可能性が立ち現れてくる仕掛けになっている(う~ん、巧妙です…)。

 参考:ノートの記述と実在の世界(現実)の関係については、ノートに書かれた登場人物たちは、自分たちがノートのなかの登場人物であることを理解しつつも、その書き手については分からない(ただそのように思っているだけで客観的な確証を持ち得ない)という設定のようです。これは夢を見ていて、それが夢だと気がついた場合でも、その夢を見ているのが誰なのかは確認できない(夢から現実を知ることは出来ないので確かめようがない)というのと同じ構造のように思われます。

 『箱男』を実在の世界(現実)から眺めれば、それは解答不可能な探偵小説として読めるだろう。ノートの記述(箱男の空想~登場人物たちの世界)から眺めれば、それは「贋魚」の章が象徴するようなナンセンスな物語として読むことが出来るだろう。

 『箱男』の巧妙なデザインは本当にすばらしい!

 今回はいつもより自由に語ってみた(いかがでした?)。次回は、わたしの仮説「裏コードとでも呼ぶべき読み方」について、ひととおりまとめておこう。

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