鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

安部公房 「箱男」《11》 見られること

 安部公房『箱男』《10》からのつづき(1回目と目次はこちら、登場人物とあらすじは《2》に書いてあります)。

 軍医殿の視点について、さらに見てゆこう。

贋医者は軍医殿の視点からずっと見られている

 「Cの場合」で見てきたように、この章での「ぼく」の視点は、人としてはあり得ない奇妙なものになっている。この視点の奇妙さは「死刑執行人に罪はない」で、さらに大胆なもの(あからさまなもの)になってゆく。

 ここでの軍医殿「ぼく」は、遺体安置室で贋医者に殺害されるのをじりじりとしながら待っている(「続・供述書」によれば、軍医殿には自殺願望があるらしい…)。

 やがて静かに、しかし確実に、ドアが開く。すかさずぼくは寝たふりをする。君以外に、そんなふうに静かにドアを開けられる者はいないのだから、わざわざ確認するまでもない。

 「わざわざ確認するまでもない」と、細かいところにまで気を使った描写がおかしみを誘いますが…… (目を閉じていても、贋医者と看護婦の靴音の違いくらいは聞き分けられるかな?)「ぼく」は終始「寝たふり」をきめこんでいる。

この先を読んでゆくと……

 鼻をつまんで、君は涙ぐむ。酸化した汗の分解物質が眼にしみるのだ。 (……)

 注射器のポンプは、二十の目盛までいっぱいに引かれているが、中には塩酸モルヒネが三ccしか入っていない。まずその三ccを送り込む。(……)君はさらにポンプを押しつづける。送り込まれるのは空気だけだ。

 「ぼく」は寝たふりをして目を閉じているはずなのに、実際にその光景を見ているかのようなこの語り(注射されるのは皮膚の感覚で分かっても、目盛りの文字は分からないでしょ…)。贋医者により腕の静脈に空気を送り込まれた「ぼく」は、やがて死んでしまう。

 (……)そしてぼくは死んでしまう。

 死んだぼくの上に、君が這い上がってくる。腕には貯水タンクをかかえいてる。(……)これで溺死に見せ掛ける準備はとりあえずととのった。

 「ぼく」が寝たふりをして目を閉じていようと、死んでしまおうと、そんなことはおかまいなしに「ぼく」の語りは止むことがない。一人称としてはありえない描き方…… (ここは笑うところ?)

 文庫本の解説によると「Cの場合」や「死刑執行人に罪はない」での「ぼく」は、話者(認識者)であり、記述者であるという(つまり話者、記述者が贋医者から軍医殿へ移行したとする読み方)。これが一般的な一人称で表現されたものであれば、たしかにそのような図式が成り立つようにも思う。でも、前回、今回と見てきたように、ここでの一人称は、人としてあり得ない視点(認識)になっている。このことをどのように考えればよいだろう。

 軍医殿の視点をあくまでも実在のものとすると、そのような視点を持つことは人間としてあり得ないので、その存在もまた人間ではない何者か(ファンタジー)になってしまう。つまり『箱男』は、お伽噺だった…… ということ?

 う~ん、そのような読み方も面白いかもしれないけれど、やはり軍医殿には人間であってほしい…… ということになると、こんどはこれらの章が軍医殿の空想(ファンタジー)ということになる。そうすると、ここでの殺人(承諾殺人?)も空想ということになり、これはこれでなんだかしっくりこない……

 これらの章で描写されていること、起きていることは、その具体性や緻密さから真実らしくある。当然のこととして軍医殿の殺害も実際に行われたことのように思われる。ただ、その視点がどうにも不可解なわけで…… さて、どうしたものか……

 ここで少し考え方をかえてみよう。これらの章をこのような変則的な書き方ではなくて、普通に書くとすれば、誰の視点を使って書くのがよいだろう…… 簡単?

 そう、贋医者の視点で書けばいいはず。わたしが指摘した軍医殿の視点の不自然さも、贋医者の視点にしてしまえば、どれも不自然でなくなる(わたしが指摘したところは、軍医殿には見えてなくても、贋医者には見えているところばかり!)

 うん? だんだんと分かってきましたよ……

「見ること」と「見られること」の関係

 インタビュー「安部公房との対話」から、このことと関係していると思われるところを引用しよう。

 見ることと見られることの関係について言えば、厳密には「見られること」はひとつの抽象観念だと言えます。見られている状況を想像して下さい。見られるのを意識すること自体が極めて人間的です。

 なるほど……

 「見る」「見られる」というのは『箱男』の重要なモチーフのひとつになっている。「見る」という行為は、自分が実際に見ているわけだから、対象をどのように見ているのかというのは自分でよく分かっている。でも「見られる」というのは「抽象観念」であり、相手の「見る」行為(意識)をこちらが想像することによって生まれてくる(相手が実際どのようにこちらを見ているのか、本当のところは分からない…)。

 このように考えるとき、これらの章は贋医者が軍医殿に見られていることを想像しつつ、軍医殿の視点と認識(心理)を使って(軍医殿になりすまして)、現在進行形ふうに描写したのでは? という推測が成り立つ(どうだろう…)。

 《10》で指摘したように、軍医殿の視点は贋医者の箱のなかにまで入り込んでくる。これは現実のひとの視点としてはありえない。でも、それが贋医者のこころのなかの「見られる」ことの「抽象観念」であれば可能になる(と思う)。

 贋医者は軍医殿の殺害を計画している。彼が箱のなかでその計画をノートに書いていたとして、そのとき軍医殿の視線を感じる(見られていると感じる)ことは、あり得ることのように思う。これは、寝たふりをしている軍医殿に見られている(見透かされている)と思うことや、死体となった軍医殿に見られていると思うこともまた同じという気がする。

 (視点としては、あくまで軍医殿「ぼく」が贋医者「君」を見ているように描かれつつも、これらの章が「君」の二人称とも思える表現になっているのは、このような理由によるものではないだろうか)

 (これらの章のタイトル「Cの場合」「死刑執行人に罪はない」は、それぞれC=贋医者、死刑執行人=贋医者であり、「ぼく」軍医殿を反映したものではなく、「君」贋医者を表現したものになっていることにも注目しておこう)

 このことを、もう少し深読みしてみると次のような推測も可能かもしれない。贋医者は犯罪を犯す側の人間なのだから、自分を視点にした一人称でこれらの章を書いてしまうと、自分が犯罪者であることを自ら認めてしまう(告白する)ことになる(そうよね)。これを軍医殿の視点で書けば、その実在性はわたしが指摘したように曖昧なものになり、犯罪の成立そのものもあやふやな印象となる(つまり贋医者にとっては、自身が傷つくことのない都合のよい書き方といえる…)。

 なんだかとても巧妙なからくりが見えてきた…… (気がする…)(このような巧妙なからくりについては「裏コードとでも呼ぶべき読み方」でさらに詳しく語る予定にしています…)

 前回、今回と視点のお話が長くなった…… 次回はふたたび軍医殿が箱男かどうかの検証に戻ろう。

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