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鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

安部公房 「箱男」《10》 軍医殿の視点

 安部公房『箱男』《9》からのつづき(1回目と目次はこちら、登場人物とあらすじは《2》に書いてあります)。

 「Cの場合」の「ぼく」軍医殿の視点について考えてみよう。

はじめに小説の視点についての簡単なご説明

 小説には視点というものが存在する(小説を書いたことのある方はよくご存じですよね)。一人称には一人称を描くための視点があり、三人称には三人称を描くための視点がある(三人称についてはその描き方によって、まざまな視点のバリエーションがあります…)。

 三人称での視点(作者、神様の視点)を使うとほとんど自由な描写が出来るけれど、一人称の「わたし」や「ぼく」の視点だとそうもいかない(かなり不自由になってしまう)。例として、三人称の描写で「マリ所長が野道を歩いていると、背中のリュックに一匹の蝶がとまった」というのを考えてみよう(マリ所長、ひさしぶりの登場です…)。これをそのまま一人称に書きかえてみると……

 「わたしが野道を歩いていると、背中のリュックに一匹の蝶がとまった」

 となる(そうよね…)。とくに問題はなさそう? (文法として間違ってはいませんが…)

 う~ん、ありえません! このマリ所長は背中に目がついているのだろうか。一人称の視点では「わたし」や「ぼく」が見えないこと、聞こえないこと、感じないことは、直接自分のこととして書いてはいけないルールになっている(あたりまえといえば、あたりまえですが…)。

 (三人称の場合であっても、それが登場人物だれかひとりの視点になっているときは、その人物から見えないこと、聞こえないことをうかつに書くと不自然になるので注意しないといけない。そこを上手くこなすのがプロのテクともいえる)

 一人称でこのようなシーンを描きたければ、「わたし」の他に誰かもうひとり、実際にその光景を見ている人物を登場させる必要がある。わたしの好みで、いまのシーンを書きかえてみると……

 「あっ所長、背中のリュックに蝶がとまってますよ」と、隣を歩いていたW君が言った。その声に立ち止まると、一匹の蝶がわたしの頬をかすめ、ひらひらと春の草原のなかに消えていった。

 みたいな感じだろうか。一人称で小説を書くときには、このような工夫が必要になる。

 視点についての理解ができたところで(できました?)、「Cの場合」の「ぼく」軍医殿の視点について考えてみよう。

軍医殿の視点はどこに存在しているのだろう

 「Cの場合」での登場人物は軍医殿「ぼく」と贋医者「君」のふたり。軍医殿の視点から贋医者が描写されている。

 (この章をあくまで「ぼく」の一人称と考えるか、「君」の二人称と考えるかについてですが、人称と視点はそれぞれ個別の事柄なので、今回人称については深く立ち入りません…)

 では、軍医殿はどこから贋医者を見ているのだろう? 軍医殿もまた贋医者と同じ部屋にいるのだろうか? 明確なことはなにも書かれていないけれど、描写の雰囲気から軍医殿と贋医者が同じ部屋にいるとは思えない(贋医者が軍医殿の存在を感じている気配がまったくない)。

 軍医殿が別の場所から贋医者の様子をうかがっているとすれば、当然「秘密の覗き穴」みたいなところから見ていることが推測される。

 「覗き」は『箱男』のテーマのひとつなので、このような手法は理解できる(軍医殿は、机の上のノートの文字を読んでいることから「秘密の覗き穴」は天井にあるのかな?)。

 と思いつつこの章を読みすすめてゆくと…… ノートとペンを手にした贋医者は箱をかぶり、ベッドの端に腰掛けてしまう(これでは箱のなかで何をしているのか見えないよ…)。その先を引用しよう。

 覗き窓に吊った、懐中電灯のスイッチを入れる。そなえつけのプラスチック板をテーブル代わりに、ノートをつけはじめる。

 「事件のあらましを要約すると、次のようになる。場所はT市、九月最後の月曜日……」

 うん? 贋医者が箱のなかで書いているノートの文字を軍医殿が読んでいるよ…… ありえない! 軍医殿の視点で書かれていると思っていたのに、その視点が破綻してしまった!

 (もし、この視点を維持しようとすれば、軍医殿は幽霊や1匹のハエのような存在だったと考えなくてはならなくなる。これは、この章での軍医殿の人間としての存在が否定されたことを意味している…)

 では、この不可解な、人としてあり得ない視点をどのように考えればよいだろう? 安部公房のうっかりミスだろうか? 安部公房もうっかりミスをしてしまうこともあるかもしれないけれど…… このような初歩的ミスをしてしまうとは思えない。あるいはこれが前衛的手法(?)で書かれた小説だから?

この章の冒頭部分を引用しよう。

 いま、君は書いている。
 たとえば、そこはおそらく、仕事机のスタンドだけを残して明かりを消した、暗い部屋。ちょうど今、君は書きかけの《供述書》から顔を上げて、深く息をついたところだ。

 読み方によっては、すべては軍医殿の空想? とも受け取れる微妙な言い回しでこの章ははじまっている。すべてが空想なら、このような人としてあり得ない視点を使っての描写もあるのかなあと思えなくもない(どうだろう…)。

 でもね、わたしの感覚だと、たとえそれが空想だったとしても、そのような視点を使うことは小説として美しくないという気がする。安部公房は推敲を重ね、考え抜いた文章を書く。面白さや意外性を狙っただけで、小説の基本である人の視点を破綻させてしまうとは思えない(そうすることの積極的な意味が見いだせない…)。

 だとしたら、そこにはどのような意図(イメージ)が隠されているのだろう(皆さんはどのように思われますか?)。次回はこの視点について、さらに考えてゆこう。

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