鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

安部公房 「箱男」《9》 軍医殿

 安部公房『箱男』《8》からのつづき(1回目と目次はこちら、登場人物とあらすじは《2》に書いてあります)。

 軍医殿が箱男かどうかを、さらに検証してゆこう。

軍医殿 「ぼく」として語る

 前回の「別紙による三ページ半の挿入文」につづき、軍医殿が登場するのは「Cの場合」のところ。ここでの軍医殿は「ぼく」として登場する。

 (Cは「供述書」の記述「姓名 C」からも分かるように贋医者のことです。つまり「ぼく」軍医殿の視点から語られた「君」贋医者=Cということですね)

 (この章での「ぼく」軍医殿の語りについては、その内容以前に人の視点として不自然、不可解なところが見受けられる。このことについては、次回の《10》で詳しく見てみます)

 この章で、わたしがはじめに注目したいのはここ。

 あの物音は、するとなんだったのだろう。(……)壁ぎわにベッド、その上に箱男そっくりに似せてつくったダンボールの移動住宅。やっと本物の箱男が出向いてくれる気になったのだろうか。

 「やっと本物の箱男が~」と、その物音について推測し、語っているということは、「ぼく」軍医殿が(そして贋医者も)本物の箱男ではないことを意味している(軍医殿が本物の箱男だとしたら、このような語り方にはならないはず)。

 この章も、あっさりと軍医殿が箱男ではないことが判明してしまった……

 文庫本の解説には「軍医殿がほんものの医者であるがゆえに、ほんものの箱男になり」と、なにやらそれっぽく書いてある。でもね、こういってはあれだけれど、本物の医者であることと、本物の箱男であることの関連はどこから導いてきたものだろう? その根拠はなに?

 たしかに、ここでの軍医殿は「ぼく」として登場している。でも「ぼく」が語っていれば(このノートを書いていれば?)、それは箱男が語っているという図式は(なんとなくそんなふうに思ってしまうのは)、安部公房がこの小説に仕掛けたトリックではないだろうか…… (わたしには、そのように思われる…)

 この小説を慎重に読みすすめれば、この時点で、軍医殿が箱男でないことがほぼ確定するわけだけれど、ここをなにげなく読んで見落とすと、次に誤読を誘う罠(トラップ)が待ちかまえている…… (さすがは安部公房、小説のすすめ方が巧妙です…)

 少し長くなるけれど、そのところを引用してみよう。

 机の上には(……)書きさしの《供述書》。(……)それをわきにおしやって、かわりに一冊のノートをひろげる。四六判、橙色の縦罫……こいつは驚きだ、君がノートまで、ぼくとそっくりのを用意したとは知らなかった。曖昧な手つきで、表紙をめくる。第一ページ目は、次のような文句で始まっている。

 これは箱男についての記録である。
 ぼくは今、この記録を箱のなかで書きはじめている。頭からかぶると、すっぽり、ちょうど腰の辺りまで届く(……)

 安部公房やりますねぇ~ 思わず軍医殿が箱男? と思わせるこの記述……

 贋医者がひろげたノートには、わたしが《7》で引用した『箱男』冒頭の章が書かれている。とすると、これは箱男のノート? ということは…… 「君がノートまで、ぼくとそっくりのを~」と語っている軍医殿が箱男だったの? と思ってしまう(皆さんはどうですか?)。

 うん? そうなの?

 いまいちど引用したところを、よく読んでみよう。軍医殿は何に驚いているのだろう……

 「四六判、橙色の縦罫……こいつは驚きだ」

 そう、軍医殿はノートの種類、型式が、自分が使っているのものと同じであることに驚いている(そうでしょ)(軍医殿もまたノートを書いていることは「死刑執行人に罪はない」で語られている)。

 もし、ノートの内容(記述)が同じであることに驚いたのだとしたら、贋医者が「曖昧な手つきで、表紙をめくる」のあとに驚かないといけない(そして、その驚きはノートの種類が同じことより、内容が同じことの方が大きいはず…)。でも、ここでの軍医殿は、その内容については「次のような文句で始まっている」とごく普通に語っていて、とくに驚いてる様子はない。

 つまり、ノートの内容(記述)が箱男を示唆するものであっても、それと軍医殿とは結びつかないということになる(関連があるのは、あくまでもノートの種類、型式のみ)(軍医殿がどのようなノートを使っているのかを知ることは、同じ病院内にいる贋医者にとって、そうむつかしいことではないと思われる…)。

 ここでの結論も、軍医殿はやはり箱男ではないということになる(この説明で納得していただけましたか?)。

 追記:この箇所は、安部公房が仕掛けた「叙述トリック」ではないかというのがわたしの理解(解釈)です。これは既存の論文や解説にはないオリジナルなものです。

 それでも謎は残る…… このような内容のノート(本物? あるいはコピー?)がどうして贋医者の手もとにあるのだろう? そのことを合理的に説明することは可能だろうか? (この謎については《13》からはじまる「裏コードとでも呼ぶべき読み方」で、わたしの推理を語る予定にしています)

 次回は軍医殿の視点について語ろう。

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