鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

安部公房 「箱男」《21》 エンディング

 安部公房『箱男』《20》からのつづき(1回目と目次はこちら、登場人物とあらすじは《2》に書いてあります)。

 『箱男』の構成A-B-A’のA’パートについて、さらに語ってゆこう。

「開幕5分前」で語っているのは誰?

 《20》で語ったようにA’パートは箱男「ぼく」の物語(この「ぼく」はAパートの「ぼく」と同一ではありません…)として読めると思う。でも、よく分からない章もある。「開幕5分前」で語っているのは、いったい誰だろう? (皆さんは誰だと思われますか?)

 わたしの感覚だと、このような上から目線のキャラって贋医者だよなあと思う。贋医者と看護婦の会話といえば「別紙による三ページ半の挿入文」があるけれど、会話に棒ダッシュを使っているのも同じだし……

 内容の方を見てみると「まず失恋の自覚からはじまった恋愛……終わりから始まる逆説的な恋なんだ」とあって、これは「書いているぼくと 書かれているぼくとの不機嫌な関係をめぐって」の贋医者の台詞「しかし、いい気なものさ、ぼくは自分に、彼女を引き留めるだけの力があったせいだと勝手に決め込んで……嫌になるな、誘惑者気取りで、朝晩二回もひげを剃ったりしてさ」と呼応しているように感じられる。

 ここで語っているのは、贋医者ということでよいだろうか? でもなあとしばらく思案…… これが贋医者と看護婦の会話だとしたら、その章がここに差し挟まれていることの意味がいまひとつ分からない。贋医者はA’パートの冒頭で病院を出て行ったことになっている…… いまさらという気がしなくもない(そうでもない?)。

 章のタイトルから考えてみると「開幕5分前」「そして開幕のベルも聞かずに劇は終わった」のふたつはつながっているように感じられる。構成から考えてみても「ぼく」と看護婦が再会した後、挿話をはさみつつも、いきなり彼女が出て行くという展開ではいささか無理があるので「開幕5分前」のような章は必要だろう。そうすると、ここでの会話は「ぼく」と看護婦なのだろうか……

 「ぼくらの間には、争いも憎しみもなかった」と「そして開幕のベルも聞かずに劇は終わった」の「ぼく」は回想している。病院(廃院)での暮らしぶりからも、ふたりのあいだで「開幕5分前」のような会話が交わされたという感じはしない。

 「開幕5分前」では「聞いている以上君も作中人物のひとりになる義務がある」と語られているので、あるいはこれは「ぼく」の空想と理解すればよいのだろうか? でもしっくりこないよ……

語られなかった物語たち

 『箱男』は300枚足らずの作品だけれど、創作の過程で書きくずした原稿は数千枚になるという(インタビュー「子午線上の綱渡り」で、安部公房は自らのことを「書きながら考えるタイプの作家」と語っている…)。

 それにしても数千枚書いて300枚ほどの作品かあ…… と思わなくもない。『箱男』が脱稿直前、約500枚の作品としてほぼまとまりかけていたことを考えると(詳細は《14》を参照)、採用されなかった原稿(語られなかった物語)のことをついあれこれと空想してしまう。

 A’パートでは「ぼく」の結末が語られている。でも『箱男』にはもうひとり主要な登場人物として贋医者がいる。贋医者の結末については、箱をかぶって病院を出て行ったとしか語られていない。これってあっさりしているというか、やや物足りなくありません?

 「裏コードとでも呼ぶべき読み方」でわたしは、贋医者が元カメラマンの箱男「ぼく」を殺害したのではないかという仮説を語った(贋医者は軍医殿も殺害している)。とすると、贋医者にもその結末の物語が語られる資格は十分あるように思う(贋医者は罪を犯したのだから、その罪に呼応する結末が必要だろう…)。

 わたしの空想にすぎないけれど、安部公房は『箱男』創作の過程で贋医者についても、その結末の物語を書いていたという気がしている。

ふたつのエンディング

 「そして開幕のベルも聞かずに~」と「………………………」(最終章)は、あいだに詩をはさんでひとつづきの物語として読むことが出来る。でも、単純にそうだと言い切れない気もする(わたしの直感がそうではないとわたしに語りかけている…)。最終章を読むとき、わたしのこころはちょっとした違和感を覚える。

 それぞれの章は、はじめからひとつづきだったのだろうか? もしかしたら、このふたつの章は「ぼく」と贋医者のそれぞれ独立した結末だったのではないか。つまり、玄関から看護婦が出て行きそのドアを釘付けにするのが「ぼく」の結末であり、玄関のドアを釘付けにして看護婦を閉じこめてしまうのが贋医者の結末だったとは考えられないだろうか(最終章のあのような行為は「ぼく」のキャラというより、贋医者のキャラにこそ似つかわしいと思うのだけれど…)。

 (それにしても、最終章のイメージの展開はすごいなあと思う。「閉ざされた空間」が箱男の箱から玄関を釘付けにされた病院になり、看護婦の部屋を経由して、駅に隣り合った売店裏の袋小路になる。「内」が「外」になり、その「外」も開放ではない。どこかクラインの壺を思わせる巧妙な構造…)

 安部公房は『箱男』の決定稿として、贋医者の物語を直接語るのではなく、「ぼく」の物語の背後に押し込めるデザインを選んだ。その結果、贋医者の結末の章は改稿され「ぼく」の結末と統合されたのではないか、わたしにはそのように思われる。

 『箱男』の最終稿から切り捨てられた原稿のなかに、同一の病院でパラレルワールドのように「ぼく」と贋医者の結末が語られていたとしたら、それはわたしのこころをわくわくさせずにはおかない(「開幕5分前」は、あるいはその名残なのだろうか…)。

安部公房の夢みた物語

 『箱男』にはよく分からないところがたくさんある。この物語は、なにがいったいどうなっているのだろう? と頭を抱えてしまう(それを苦痛に感じてしまう)方も、なかにはいらっしゃるかもしれない。

 「夢のなかでは箱男も箱を脱いで~」のもとになった短い物語「物語とは」の冒頭部分を引用しよう。

 物語とは、因果律によって、世界を梱包してみせる思考のゲームである。現在というこの瞬間を、過去の結果と考え、未来の原因とみなすことで、(……)かろうじて現在に耐え、切り抜けていくための生活術としての物語。(……)ひとは物語という色ガラスなしでは、瞬間々々のまぶしさに眼を焼かれてしまうことだろう。

 なるほど……

 『箱男』の最後の数行を引用しよう。

 いまならはっきりと、確信をもって言うことが出来る。ぼくは少しも後悔なんかしていない。手掛かりが多ければ、真相もその手掛かりの数だけ存在していいわけだ。

 救急車のサイレンが聞こえてきた。

 文庫本裏表紙には『箱男』のことが「実験精神溢れる書き下ろし長編」と紹介されている。すぐれた小説の技術を持つ安部公房なら『箱男』をこのようにではなく、もっと一般的な物語として書くことも出来たと思う(その方がよりおおくの読者を獲得出来たかもしれない…)。でも安部公房は、そのように物語ることをしなかった。「少しも後悔なんかしていない」と「ぼく」は語る。このような物語のあり方こそ、安部公房が望み、夢みた物語なのだろう。

 安部公房は読者にむけて「小説への参加という魅力が生まれるんじゃないか」と語っている(詳細は《7》を参照)。「手掛かりが多ければ、真相もその手掛かりの数だけ存在していいわけだ」と「ぼく」は語る。なるほど、手掛かりはたくさん用意されている。そこからさまざまに真相=物語を見いだすのは読者の役割ということらしい。でもそれは、なかなか困難な作業でもある。

 (う~ん、と長い時間考えていると、やがて頭が痛くなってくる。わたしの耳にも救急車のサイレンが聞こえてきた…)

 わたしがこれまで語ってきた謎解き=断片的な記述から因果律を見いだす作業=「物語という色ガラス」は『箱男』の「瞬間々々のまぶしさ」にどれほど持ちこたえることが出来ただろう?  それは皆さんにとっても有効な物語として機能しましたか? (もしそうであるなら、うれしく思います…)

 長々と語ってきた『箱男』のシリーズも次回で終わり。これまで語ってきたことを、ひととおりまとめておこう。

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