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鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

安部公房 「箱男」《6》 贋魚

 安部公房『箱男』《5》からのつづき(1回目と目次はこちら、登場人物とあらすじは《2》に書いてあります)。

 そろそろ『箱男』の謎解きを語りはじめたいところだけれど、その前にメインの物語のあいだに差し挟まれた挿話のひとつ「贋魚」のお話「それから何度かぼくは居眠りをした」について語ってみよう。

「贋魚」は安部公房のお気に入り

 「贋魚」のお話では、魚になった夢と死と現実が奇妙な「からまりあい」として描かれる。

 貝殻草のにおいを嗅ぐと、魚になった夢を見るという。

 (……)

 贋魚は、夢から覚める前に死んでしまっていたので、もうそれ以上覚めるわけにはいかなかった。死んだ後までも、まだ夢を見つづけなければならなかった。

 (……)

 嵐の後、海辺に打ち上げられた魚たちのなかには、だから、貝殻草の花にむせながら睡りについた、運の悪い連中がすくなからず混じっているはずだという。

 全体としては滑稽でも、どこか痛々しくもあり、悲しくもある。安部公房はインタビュー「安部公房との対話」で「贋魚」のことを「一種のイギリス式ブラックコメディ」であり「最初から最後までナンセンス」なお話と語っている。

 贋魚の最後「嵐の後、海辺に打ち上げられた魚~」のところは、どのようなことなのか分りにくい(そうでもない?)。安部公房の解説によると、

 嵐の後の浜辺には死んだ魚がたくさん打ち上げられる。その死んだ魚のなかには、夢から出られなかった男の夢を見ている魚もいるかもしれない。

 ということだそうです。安部公房の解説を参考にしつつ、贋魚のお話の流れを図にしてまとめておこう(わたしの理解です…)。

贋魚のお話 1~3

 贋魚のお話 1~3、終わらない夢の図。

 いかが?

 贋魚のお話は、貝殻草によって魚になった夢を見ることからはじまる。それは終わりのない夢だった。自分が本物の魚ではないこと(贋魚であること)に思い至り、ここが夢の世界であることに気がついても夢は覚めない。贋魚が死んだ後も夢は終わらない。夢を見ていた男は永遠に夢の世界に閉じ込められてしまう。海辺に打ち上げられた魚(現実)に贋魚の死(夢)が重ね合わされるとき、夢は「誰かの夢」であることを越えて継承されてゆく…… (う~ん、なんとも奇妙でシュールなお話です…)

贋魚のエピソード 生理の感覚

 文庫本で5ページほどの挿話「贋魚」のお話は安部公房のお気に入りだったらしく、インタビューやエッセイで語ったり、また戯曲としてアレンジされて舞台作品としても発表されている。

 エッセイ「贋魚のエピソード」から少し紹介してみよう。

 このエッセイは舞台「贋魚」の稽古について語ったもので、役者が舞台で小説を朗読する場合のポイントや注意点を、安部公房自身が問題として出題している。それらの問題はどれも簡単なものなのだけれど、そこでの解答や解説はとても安部公房らしいと思った。ちょっとやってみよう……

 問題のひとつは、次の文章を朗読するとき「意識を集中させるとしたら、どの言葉を選ぶべきだろう?」というもの。

 「貝殻草のにおいを嗅ぐと、魚になった夢を見るという」

 例として、三人の俳優の答えをあげている。

 俳優Aは、貝殻草のイメージだと答え、かなりの数の賛同者を得た。
 俳優Bは、後段の「夢を見る……」の心理状態が集中点だと主張した。同調者は少なかった。
 俳優Cは、魚のイメージだと答えたが、あまり自信はなさそうだった。

 わたしは俳優Bの「夢を見る」かな…… (皆さんはどう思われますか?)

 では、答え。安部公房によると、これら俳優の解答は「集中点の意味をとりちがえている」ので、どれも不正解とのこと(あらら…)。ここでのポイントは「心理や、イメージや、気分などでは、集中点になれない」「状況との生理的なかかわり合いを、生理的にとらえなければならない」ということで、つまり……

 「貝殻草のにおいを嗅ぐと……」
 この前段に関して言えば、生理的に集中できるのは、まず「におい」だろう。貝殻草のにおいを、現実のものとして喚起してみることだ。もし集中できれば――実際に嗅覚が働きはじめれば――しぜん好ましい匂い、あるいは嫌な匂い、といった生理反応がともなうはずである。

 なるほど、まずは「におい」という生理に集中することが大切ということですね。ここでの安部公房は「その(自分の状況の)位置を決定するのは、どんな場合でも、かならず生理なのである」と解説する。

 ふつう朗読というと文章の意味やイメージの方に意識がいくけれども、それ以前に、その文章の持っている生理的な感覚を実際のもののように感じて(そこに意識を集中して)読まなければならないということらしい(この理解で合ってる?)。

生理への眼差し

 わたしはここに、安部公房がつくりだす小説世界のリアリティの秘密をかいま見た気がした。『箱男』「ここに再び そして最後の挿入文」から引用しよう。

 箱男になって最初に迎える、夏の数日間。(……)つらいのは、乾く間もなく垢の層になって重なっていく、ねばねばした汗だった。(……)その発酵した垢の層の下で、息をとめられた汗腺が、涸れた浅瀬の貝のように舌を出してあえいでいる。どんな内臓の痛みよりも耐えがたい、この崩れていく皮膚のむず痒さ。

 読んでいるこちらまでかゆくなってきそうな文章ですが……

 このような表現は好みが分かれたりもするけれど、安部公房はひとにとっての根源的な生理の感覚を大切にした作家だという気がしている。このような生理への眼差し(その表現力)が、そこに描かれる小説世界をいきいきとした、なまなましい体験として読者に伝えてくれるのだと思った。

 次回は文章や構成の特徴について語ろう。

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