鞠十月堂

詩と文学と日記のブログ

安部公房 「箱男」《20》 物語は語られた

 安部公房『箱男』《19》からのつづき(1回目と目次はこちら、登場人物とあらすじは《2》に書いてあります)。

 『箱男』の構成A-B-A’のA’パートについて語ってゆこう(構成についての詳細は《16》を参照)。

 A’パートは箱男「ぼく」のお話ではあるけれど、前半のAパートとはいくらか趣が違っている。ここでの「ぼく」は、自分がノートの筆者(記述者)であることをことさらに語ったりはしない。

箱男のクライマックス

 「………………………」で病院を訪れた「ぼく」は看護婦と再会し、彼女に求められるまま箱を脱ぐ(このとき「ぼく」は洗濯した服を乾かしているあいだになくしてしまい全裸だった…)。

 ぼくは長靴を脱ぎながら、全身が小刻みにふるえているのを感じる。そっと箱から脱け出し、音をたてないように、後ろから彼女に近付いて、肩に手をかける。(……)

 (……)

 「白状するよ、ぼくは贋者だったんだ」
 「もう黙って……」
 「でも、このノートは本物なんだよ。本物の箱男からあずかった遺書なのさ」
 「汗びっしょり……」

 Aパートの「………………………」(「約束は履行され~」の次の章)で「箱を脱げるのは、昆虫が変態するように、それで別の世界に脱皮できる時なのだ」と語られいてるように、箱男が箱を脱ぐ瞬間というのは、この物語のクライマックスなのだろうか…… (たぶんそうなのだろう…)

 箱男の「正体不明の存在」から、裸体という「包み隠しようのない存在」へのコントラストがすばらしい! (倒錯した性的イメージを含む挿話「Dの場合」のあとの、あっさりとした「ぼく」のクライマックス。このような構成もまた、安部公房らしい…)

箱男』にはいろいろな「ぼく」がいる

 わたしの心情としては「ぼく」にひと言、よかったね! と声をかけてあげたくなる。でも、この「ぼく」は、いったいどの「ぼく」だろう?

 元カメラマンの「ぼく」は空気銃で撃たれた傷の治療のために病院を訪れて以降、看護婦と会話をするのはこれが2回目になる。そうすると、この会話はなんかおかしくないか? (そうでもない?)

 ここでの「ぼく」は、ノートのことを看護婦が知っているという前提で話をしている。看護婦の方も「ノートってなに?」とは訊ねない。「表紙裏に貼付した証拠写真~」には病院での「ぼく」と看護婦の会話(1回目)が書かれている。でも、そこでノートのことが語られた様子はない(あの場面で「ぼく」がノートについて何かを語ったとは考えられない…)。

 では、ノートはいつ二人の共通の認識になったのだろう? ページを繰ってみると…… 「書いているぼくと 書かれているぼくとの~」のところにその場面(「ぼく」と贋箱男=贋医者がノートの記述についての言い争いをするところ)を見つけることが出来る。看護婦はそのとき「ぼく」のノートのことを知ったのだろう。

 でもそれは「ぼく」の(あるいは他の誰かの)空想の記述であり、実際に起きたこと(元カメラマンの箱男「ぼく」が体験したこと)の記述ではない。ということは、この「ぼく」は「書いているぼくと 書かれているぼくとの~」から引き継がれた、書かれている方の「ぼく」、つまり登場人物(キャラ)としての「ぼく」ということになる。

 あらら……

箱男の記録から箱男の物語へ

 Aパートを「箱男の記録」(箱男が実際に体験したことの記述)とすると、A’パートは「箱男の物語」(箱男のキャラを主人公にした物語)といえるかもしれない(そのように考えると、この「ぼく」がAパートのときのようにノートの記述についてことさら言及しないのも肯ける…)。

 「箱男の記録」から「箱男の物語」への展開を分かりやすいように図にしておこう。

「箱男の記録」から「箱男の物語」へ

 「箱男の記録」から「箱男の物語」への図。

 Aパートの「ぼく」は〈A0〉〈A1〉〈A2〉の三つに分類できる。

ぼく〈A0〉――実在の世界(現実)でノートを書いてる元カメラマンの「ぼく」(箱男の手記という設定から導かれる存在、ノートの記述からその存在を客観的に確認することは出来ない)。

ぼく〈A1〉――ノートに記述された元カメラマンの「ぼく」(元カメラマンの「ぼく」が経験した現在~過去の出来事が「ぼく」の一人称でノートに記述される)。

ぼく〈A2〉――箱男の空想としてノートに記述された「ぼく」(空想された未来が「ぼく」の一人称でノートに記述される、実在の世界の「ぼく」が経験したことの記述ではないことを確認しておこう)。

 『箱男』の冒頭で提示されたノートの設定は「箱男の現在~過去の記録」だけれど、〈A0〉→〈A1〉のライン(赤)はA’パートに引きつがれていない(消失しているように見受けられる)。それにかわって〈A2〉→〈A'2〉のライン(青)によって、Aパート「箱男の空想」がA’パート「箱男の物語」へと展開される。

 箱男のノートもAパートとA’パートでは、その位置づけ、意味あいが変化しているように思われる。A’パートの「ぼく」はノートのことを「本物の箱男からあずかった遺書なのさ」と語る。その台詞から推測すると図の灰色の矢印のような関係が考えられる。これは、手記のためのノートがA’パートへの展開によって箱男の物語世界のなかに実体として転位したようにみえる(A’パートの「ぼく」はノートの書き手の側面を持たず、当初の手記~記録という設定は引きつがれていないというのがわたしの見立てです)。

 (A’パートでの「遺書」という表現は、元カメラマンの「ぼく」の死、軍医殿の死を暗示しているように思われる。ただし、その後の( )の記述にあるように、その内容の真実性は保証されていない)

 このようにみてゆくと、いっけん奇妙に思われる展開ではあるけれど、現実と空想(実在と虚構)を自在に往き来するかのような構造は「贋魚」のお話と共通するものがあるように思う(「贋魚」の詳細は《6》を参照)。

 「贋魚」では「男の夢」が「現実の魚」へと展開されてゆく。男は夢の世界に閉じ込められてしまう(安部公房の解説)。箱男では「箱男の空想」が「現実を舞台にした箱男の物語」として展開される。「ぼく」もまた箱男の物語世界に閉じ込められてしまう。このような視点で『箱男』を眺めるとき、作品を形成する「ナンセンスの構造」が緻密に計算されて組み立てられたもの(仕掛けられたも)であることがうかがえる(興味深い…)。

 それにしてもと思う。このようにナンセンスの構造を解きほぐしてもなお『箱男』には内容の把握に困難をともなう記述もおおい。

 A’パートの「ぼく」は看護婦に自分のことを「贋者だった」と語る(偽物?)。「ぼく」が現実に存在する箱男ではなく、箱男のキャラ(物語の登場人物)だからそのように語ったのだろうか…… あるいはこの箱男のキャラが、元カメラマンの「ぼく」を殺害したと思われる贋医者によって記述されたものだから贋者なのか…… それとも……

 謎解きはもういいよね。「開幕五分前」から、いくらか引用してこの記事を終えよう。

 どうやら君には理解できていないらしい。むろんこれは物語だ。現在進行形の物語なのさ。

 次回はA’パートを、さらに見てゆこう。

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